風雲館
風雲館(ふううんかん)は、明治時代に中島彬夫によって大阪で設立された教育機関で、立教大学の前身校の1つである[1]。英学に加えて、独逸学や漢学などが教授されたほか、夜学や分校、さらには女子専門の課も設けられた。演説会も盛んに開かれ活発な論議の場となったが、英和学舎と合併して閉校となった[1][2]。校名として北浜風雲館と記述する文献もある[3]。
概要
[編集]1877年(明治10年)1月15日、中島彬夫が大阪・北浜五丁目風雲館に英学私塾「風雲館」を開設する[1]。
1877年(明治10年)2月3日、大阪での第六回目の演説会が風雲館で開かれ、浦谷義春の「自由論」をめぐってその後論争となった[1]。
1877年(明治10年)6月に、風雲館は転塾し[1]、さらに1878年(明治11年)2月12日に、風雲館が天満若松町七番地に移転し、夜学を開始する[1]。その後、夜学は一旦閉じられたものの、同年10月には再開した[1]。 学校が転々とする中、後に第五高等学校で夏目漱石の後任となった清水泰次郎(日本英文学会創設者)が、1877年(明治10年)11月から1878年(明治11年)9月まで風雲館に学び、独逸学・漢学を修めた[3]。さらに清水は、北浜風雲館の館主の中島彬夫の要請により1878年(明治11年)11月から1879年(明治12年)3月まで、英学部教頭を務めた[3]。
1879年(明治12年)9月1日、風雲館が大阪・北浜三丁目に分塾を設け、女学専門の課を設けて教授する[1]。
1880年(明治13年)1月に、風雲館は大阪・英和学舎(現・立教大学)と合併して閉校となり[2]、英和学舎には新たに夜学課が設置された[4]。
1880年(明治13年)4月に、英和学舎は正教師にアーサー・モリス(英和学舎の前身校の聖テモテ学校初代校長)、ヘンリー・ラニング(聖バルナバ病院創設者)、テオドシウス・ティング(英和学舎創設者、立教専修学校初代校長)、ジョン・マキム(後の立教学院理事長)、補教師に谷井正道、中島虎次郎(後の奈良基督教会伝道師、奈良英和学校支援者)、漢学に中島氏彬、小笠原字一良、数学に立花義誠という教師陣で運営された[4]。
1881年(明治14年)3月には、中島氏彬(英和学舎で漢学教授を担当)が大阪上等裁判所を辞し、前年に英和学舎と合併して閉校した風雲館を再興した[1]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 大阪市立図書館 明治前期大阪編年史綱文データベース 『2.1877(明治10)年から1881(明治14)年』
- ^ a b 学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 『立教学院』
- ^ a b c 本井康博「清水泰次郎について : 同志社、浪華女学校時代を中心に」『英学史研究』第1988巻第20号、日本英学史学会、1987年、123-135頁、doi:10.5024/jeigakushi.1988.123、ISSN 0386-9490、NAID 130003624821。
- ^ a b 『第一節 長崎通詞への英語教育と大阪の英和学舎』 (PDF) 立教学院百五十年史(第1巻),第二章