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左乙女豊秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

左乙女 豊秋(さおとめ とよあき、1855年 - 没年不詳)は、日本の教育者聖職者。立教学校(現・立教大学)主監、立教中学校初代校長、立教専修学校校長、東京英語専修学校校長、札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)初代校長、私立奈良尋常中学校(奈良英和学校の後身)校長、和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)校長、大阪・英和学舎教授、大阪聖パウロ教会牧師[1]

人物・経歴

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1855年(安政2年)生まれ[2]。 大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)出身。英和学舎では、テオドシウス・ティングに学んだ[3]

その後、英和学舎の教員となるが、ティングやアーサー・ラザフォード・モリス、聖バルナバ病院創設者のヘンリー・ラニングら宣教師らに加え、英文学の第一人者の名声を得ていた清水泰次郎、洋行帰りとして大変珍しがられた山中幸平らの同僚教師とともに英語では他を圧倒した[4]

1884年(明治17年)、大阪聖パウロ教会牧師[1]

大阪開西学館で教える[5]

1890年(明治23年)、立教大学校を廃して校政と学制を改革するために設立された立教学校(5年制)に招聘されることとなり、立教学校の主監に就任[5]

1896年(明治29年)4月、立教中学校初代校長に就任し[1]、1899年(明治32年)7月まで務める。中学校校長の後任は元田作之進が務めた[6]。また、1897年(明治30年)10月から立教専修学校校長を兼務(11月までの1ヵ月間)し、同月には東京英語専修学校校長にも中学校校長と兼務で就任した[7]

立教学院での職務を退任した後、矢島錦蔵の後任として、1899年(明治32年)4月に、中学校令改定に伴い、改称された札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)初代校長に就任[1]

その後、1900年(明治33年)頃には、私立奈良尋常中学校(奈良英和学校の後身)校長に就任した[1]。しかし、1901年(明治34年)3月、米国聖公会ミッションの意向から、奈良尋常中学校は廃校となった[8]

翌1902年(明治35年)には、和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)校長を務めた[9]

主な著作

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  • 『公會月報【創刊号】』左乙女豊秋/徳富猪一郎/角中主一郎/清田海一郎 公會月報社(大阪) 1890年(明治23年)
  • 基督教祷式 : 附・詩篇抜萃』左乙女豊秋 訳 宇宙神教出版所 1896年(明治29年)10月

関係人物

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脚注

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  1. ^ a b c d e 中川良和「奈良英学史抄」『英学史研究』第1978巻第10号、日本英学史学会、1977年、121-134頁、ISSN 1883-9282 
  2. ^ Webcat Plus 左乙女 豊秋
  3. ^ 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(7) : 1880年代におけるキリスト教徒の教育活動<2> - 大学設立構想」『学術研究紀要 / 鹿屋体育大学』第18巻、鹿屋体育大学、1997年9月1日、31-42頁。 
  4. ^ 『立教大学新聞 第89号』 1930年(昭和5年)6月18日
  5. ^ a b 小川智瑞恵「立教大学の形成期における大学教育理念の模索 : 立教学院ミッションに着目して」『キリスト教教育研究』第32巻、立教大学、2015年6月、33-62頁。 
  6. ^ 立教大学・立教学院歴代首脳者『小学校・中学校・高等学校』
  7. ^ 立教大学・立教学院歴代首脳者『旧制大学・大学・工業理科専門学校』
  8. ^ 奈良市 奈良市史・通史四『第三節 文明開化の世相』
  9. ^ 月刊ニューズレター『現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて』第33号 2017年9月15日