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韓国広足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

韓国広足(からくに の ひろたり、生没年不詳)は、7世紀末から8世紀日本呪術師である。姓(カバネ)は。氏は物部韓国(もののべのからくに)ともいう。役小角を師としたが、699年に小角を告発した。呪禁の名人として朝廷に仕え、732年典薬頭になった。従五位下

事績

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物部韓国氏は古代の有力氏族である物部氏の分かれで、先祖である物部塩児が遣わされた国にちなんで改姓したと伝えられる[1]。在来の氏族ではあるが、その系譜から外来の知識・技能を学ぶに適した伝統があったと思われる[2]

続日本紀』によれば、文武天皇3年(699年)5月24日に呪術者の役小角が伊豆島に遠流された。外従五位下韓国連広足は小角を師としたが、後にその才能をねたんで(あるいは悪いことに使われ)、妖惑だと讒言した[3]。この箇所の解釈には、讒言したのは誰か別の人であるとしたり[4]、そもそも広足が小角を師としたくだりが後世の挿入だとする説もある[5]。『続日本紀』には外従五位下とあるが、韓国がこの位を授けられたのは天平3年であり、この時点ではもっと低かったはずである[6]。役小角は修験道の祖として有名だが、確かな歴史事実はこの事件のみで、他の事績は伝説に包まれている。妖惑とされた事実の有無・内容については不明だが、「讒言」という評価は『続日本紀』が編纂された100年後までの後世にできたものであろう[6]

韓国広足は、『藤氏家伝』の「武智麻呂伝」に、余仁軍とともに呪禁の名人として記される。また、大宝令の注釈である『古記』に「道術符禁は道士の法で今辛国連がこれを行なう」とある。この辛国連(韓国連)は、広足のことであろう[7]。広足の呪禁は道教的な術であったと考えられる[8]

天平3年(731年)1月27日に物部韓国広足は外従五位下になった。翌4年(732年)10月17日に典薬頭に任命された。典薬寮には呪禁博士1人、呪禁師2人、呪禁生6人が配属されていたので、広足は朝廷の呪禁者として勤め、典薬頭に上りつめたのであろう[9]。その後の事績は不明である。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』延暦9年11月壬申(10日)条。
  2. ^ 下出積與「令制下の呪禁」111頁。鈴木昭英「役小角伝承における韓国連広足」8頁。
  3. ^ 『続日本紀』文武天皇3年5月辛酉(24日)条。以下、特に出典を記さないかぎり歴史事実については『続日本紀』の当該年月条による。
  4. ^ 広足が讒言したとするのは、宮家準『役行者と修験道の歴史』。別の人と考えるのは新古典文学大系『続日本紀』1の17頁、注20。宇治谷孟訳『続日本紀』上23頁。
  5. ^ 鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」53-54頁。
  6. ^ a b 平泉洸「鈴木昭英氏『小角伝の韓国連広足に就て』」98頁。
  7. ^ 鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」52頁、鈴木昭英「役小角伝承における韓国連広足」9頁。日本思想大系『律令』新装版542頁注2a。下出積與「令制下の呪禁」112頁。新古典文学大系『続日本紀』1の281頁注114。
  8. ^ 鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」51頁。下出積與「令制下の呪禁」111-112頁。宮家準『役行者と修験道の歴史』21-22頁。
  9. ^ 鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」51頁。

参考文献

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  • 青木和夫稲岡耕二笹山晴生白藤禮幸校注『続日本紀 一』(新日本古典文学大系12)、岩波書店、1989年。
  • 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀 四』(新日本古典文学大系15)、岩波書店、1995年。
  • 宇治谷孟訳『続日本紀 上』、講談社学術文庫、1992年。
  • 井上光貞関晃土田直鎮青木和夫校注『日本思想大系 律令』、岩波書店、新装版1994年。初版1976年。
  • 下出積與「令制下の呪禁」、『日本古代の道教・陰陽道と神祇』、吉川弘文館、1997年所収。初出は『中央学術研究所紀要』12号、1983年。
  • 鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」、『日本上古史研究』第3巻第3号(通巻27号)、1958年3月。
  • 鈴木昭英「役小角伝承における韓国連広足」、『修験教団の形成と展開』(修験道歴史民俗論集1)、法蔵館、2003年。
  • 平泉洸「鈴木昭英氏『小角伝の韓国連広足に就て』」、『日本上古史研究』第3巻5号(通巻29号、1958年5月)。
  • 宮家準『役行者と修験道の歴史』、吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)、2000年。