隠岐時清
表示
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 仁治3年[1](1242年) |
死没 | 嘉元3年5月4日(1305年5月27日) |
改名 | 時清→阿清(法名) |
別名 | 佐々木時清、二郎左衛門尉(通称)、隠岐判官、隠岐入道 |
幕府 | 鎌倉幕府隠岐守護 |
主君 | 北条時頼→時宗→貞時 |
氏族 | 佐々木氏 |
父母 | 父:佐々木泰清、母:大井朝光の娘 |
兄弟 | 義重、時清、頼泰、義泰、茂清、基顕、頼清、宗泰、義信、清村、清賀、桃井頼直室、佐々木宗経室、東六郎左衛門室。 |
妻 | 大曾禰長経の娘 |
子 | 清房、頼清、宗清、清忠、二階堂貞綱妾 |
隠岐 時清(おき とききよ)は、鎌倉時代中期から後期の武士。佐々木時清。
北条時頼が得宗家当主であった頃(寛元4年(1246年)- 弘長3年(1263年))に元服をし、その偏諱(「時」の字)を授かったとみられる[2]。『吾妻鏡』によると、弘長3年正月十日条で左衛門少尉、検非違使として名前が見え、翌文永元年(1264年)、11月に従五位下に叙爵された。建治元年(1275年)、34歳の時に引付衆に選任され、弘安6年(1283年)には評定衆に任じられる。同10年(1287年)東使を務める。
永仁3年(1295年)、評定衆を辞す。正安3年(1301年)、再び東使を務める。
嘉元3年(1305年)、嘉元の乱で北条宗宣の率いる追討軍に従軍するも、北条宗方と相討ちになり死去した。享年64。