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振気流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
隈元振気流から転送)
振気流
しんきりゅう
別名 隈元振気流
発生国 日本の旗 日本
発生年 明治時代
創始者 隈元実道
主要技術 練體柔術剣術
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振気流(しんきりゅう)とは、隈元実道が編み出した武術の流派。隈元振気流、あるいは隈本流とも呼ばれる。剣術柔術からなる。

歴史

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流祖である隈元実道(隈元円之進)は1850年嘉永3年)12月23日に薩摩藩草牟田に生まれた。

薩摩藩の剣術師範を務めた父の隈元円右衛門源実記より直心影流を学び15歳で免許を受けた[1]

明治初年に薩摩から上京し山岡鉄舟の門に入って一刀正伝無刀流を学んだ[1]

柔術は新心流を習得している[2]。また一説には楊心流を学んでいたとされている。

警視庁に勤めていた関係で荒木流起倒流関口流、清水流、神明殺活流良移心當流殺當流伴吾流渋川流揚心流天神真楊流などから編纂された警視流拳法を学んでおり振気流の体系に取り入れられている。隈本は明治時代に警視庁の弥生祭武術大会等にも出場しており他流の柔術家と試合をした記録が残っている。

警視庁に勤めた隈本は台湾出兵西南戦争に従軍し、抜刀隊を率いて活躍した。役後、日本陸軍憲兵少尉となった[3]。この経験より、片手で扱うサーベル形式であった当時の軍刀で、両手で刀を扱う日本剣術の技法を使うことを想定した「短柄剣術」を提唱した。柔術は「練體柔術」とした[1]

隈元は1888年明治21年)東京赤坂氷川町道場を開き、陸海軍志願者に武道を教授した。1892年(明治25年)5月8日に皇太子(後の大正天皇)が道場に来訪したことを契機として、道場の名を「振気館」と改め、自らの武術を「振気流」と称した[2]1900年(明治33年)には在住していた天津で「人入堂」という道場を開き、武術を教える傍ら中国の各種武術を研究した。その後、振気流は陸軍における剣術の主流となった[1]



内容

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振気流は短柄剣術と練體柔術を二本柱としている。 また「流旨五首」という流儀の極意を伝える和歌が伝わっており、それぞれの歌に長い解釈が加えられている[2]

剣術

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剣術は「剣術基本演習」「振気流剣法之形五本」「古流十之形」の3段階からなっており、それに剣舞が付属している。「剣術基本演習」は第一教から第二十三教まであり、「振気流剣法之形五本」は「矢筈切合」、「垂柳打込」、「常山之蛇」、「真剣相打」、「手心之鎬」の五本からなる。「古流十之形」は太い袋撓を使って行う[2]

練體柔術

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振気流練体柔術の絹擔

練體柔術の形は初段から三十段まである。隈元が関口新心流を学んでいたことから「羽伏」「自己過ち」「楊柳」など形の名称に影響が見られる。

三十段までの体系は、初段段から三段目までの柔術形を習得した後に四段目で三段までの形を連続して行う。五段は武器に関する技術を学ぶ。六段以降は初段から五段の流れと同じである。

四段は初段から三段までの形の前後に捨身と掬ひ倒しを加えた52手を連続で一気に行う。

五段は一尺六寸の小太刀を持ち竹刀を取り拉ぐ形で剣術の防具を着用する。

六段から八段までの表は1888年(明治21年)に久富鉄太郎を中心に警視庁で制定された警視流拳法である。裏は振気流独自の返し技となっている。

九段は六段から八段までを連続で行う。

十段日本武尊の時代に使われた剣を模した拵えの佩刀を用いて行う。試験には五段と同様に剣術の防具を着用する。

十一段から十三段は乱取で用いられる投技の形である。

十四段は十一段から十三段までを連続で行うのと競技試合がある。

二十九段は固技とその返し技である。

初段之形 16手 (各左右あり)
右片手矢筈、両手弾ね右羽伏せ、右拳突き、右後抱き、右後抱き返し、右拳突き逆倒し、両手取り右拳突き上げ、爪返し
二段之形 16手 (各左右あり)
右下手羽伏、右下手肘當り、右下手首捲、胸倉取り右膕打ち、右腕止己が首捲き、右手寸口、右押し潰され返し、右辷り込み蹴り上け
三段之形 16手 (各左右あり)
頭胴打ち、壁副へ、意表、鎌掛、釣鐘、膝膕、引落、脚當
四段之形 52手(連続して行う)
片手取り捨身、片手矢筈、両手弾ね羽伏せ、拳突き、後抱き、後抱き返し、拳突き逆倒し、両手取り拳突き上け、爪返し
下手羽伏、下手肘當り、下手首捲、胸倉取り膕打ち、腕止己が首捲き、寸口、押し潰され返し、辷り込み蹴り上け
頭胴打ち、壁副へ、意表、鎌掛、釣鐘、膝膕、引落、脚當、掬ひ倒し

五段之形 13手
胸倉隼表、胸倉隼裏、右腕隼表、右腕隼裏、左腕隼表、左腕隼裏、臍帯隼表、臍帯隼裏、奪刀隼表、奪刀隼裏、鞍下掬ひ投げ、受け返し引き胴足搦み、夢見要領

六段之形 16手 (他流の技。各形に左右と振気流裏あり)
荒木流片手胸取り
起倒流腕止め
関口流襟投け
清川流摺込み
七段之形 16手 (他流の技。各形に左右と振気流裏あり)
神明殺活流敵之先
良移心頭流帯引
殺當流連行
伴吾流突込み
八段之形 16手 (他流の技。各形に左右と振気流裏あり)
澁川流腰投け
楊心流壁副
天神眞楊流連拍子
起倒流引落
九段之形 48手(連続して行う)
胸倉取り、腕止、襟投け、摺込み、敵之先、帯引、連行、突込み、腰投け、壁副、連拍子、引落

十段之形 8手
柄搦み振り返へし、柄搦み掬い戻し、柄搦み板割り、柄握り替りて羽伏せかため、鬢摺り倒し閂ぬきかため、羽伏せ蹴り、後抱き顋弾ね、前抱き先王の違法抜き打ち、

十一段 20手(各形に左右表裏がある)
浮足掬ひ、虚實掬ひ、内股掬ひ、送足外掛け、送足内掛け
十二段 20手(各形に左右表裏がある)
く字投け、絹擔き、互ひ頸襟、外無双、立締の解き
十三段 20手(各形に左右表脱けがある)
真捨身、斜め捨身、横捨身、蟹捨身、海老捨身
十四段(連続して行う・競技試合)
浮足掬ひ、虚實掬ひ、内股掬ひ、送足外掛け、送足内掛け
く字投け、絹擔き、互ひ頸襟、外無双、立締の解き
真捨身、斜め捨身、横捨身、蟹捨身、海老捨身

十五段 8手
真向、右側、後方、左側
真向、右側、後方、左側

十六段 32手(各形に左右表裏がある)
片手胸倉、互胸倉、後抱、抱き上け落し、鬢摺り倒し、前抱き付き、両手握り振離し、片手握り突き離し
十七段 20手(各形に左右表裏がある)
四ッ手、則首、河津、頤搦み、外踝拂ひ倒し
十八段 20手(各形に左右表裏がある)
後帯、膝切り、輪切り、逆合せ、自己過ち
十九段(左右表裏を連続して行う)
片手胸倉、互胸倉、後抱、抱き上け落し、鬢摺り倒し、前抱き付き、両手握り振離し、片手握り突き離し
四ッ手、則首、河津、頤搦み、外踝拂ひ倒し
後帯、膝切り、輪切り、逆合せ、自己過ち

二十段
二十一段
二十二段
二十三段

二十四段

二十五段

二十六段 16手(各左右あり)
楊柳羽伏せ、楊柳肘當り、楊柳爪返し、片手胸倉、飛ひ脱け羽伏せ、捲き返し、腋當り、咽喉交叉締め
二十七段 16手(各左右あり)
振り込み、突き避け、捻り返へし、突き込み、鬼拳、飛込み、背帯離し、背折り返し
二十八段 16手(各左右あり)
大腿かため脱き、坊主かため脱き、板割りかため脱き、閂かため脱き、肩かため脱き、胴締め脱き、穹窿脱き、袈裟かため
二十九段(連続して行う)
楊柳羽伏せ、楊柳肘當り、楊柳爪返し、片手胸倉、飛ひ脱け羽伏せ、捲き返し、腋當り、咽喉交叉締め
振り込み、突き避け、捻り返へし、突き込み、鬼拳、飛込み、背帯離し、背折り返し
大腿かため脱き、坊主かため脱き、板割りかため脱き、閂かため脱き、肩かため脱き、胴締め脱き、穹窿脱き、袈裟かため

三十段

練體柔術の試合

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振気流に関する話

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練体柔術と活法整骨

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振気流には隈元実道の考えにより柔術形以外の活法・整骨・捕縄は伝わっていない。隈元は整骨と活法を否定する立場をとっており、柔術教授傷挫骨治療所の表札を見る都度に世間から自身が開いた振気流が同一視されて堪るものかと思っていたという。

隈元の活法に対する考え方は下記の通りである。

効なき活法を空頼みに咽喉を絞め合いなどするのは生理学の発達する以前の旧夢である。 仮死状態の者は背中を二つ三つ叩くか、引き落として「気を慥かにせよ。」と呼ぶくらいで蘇生するもので大げさに活法などとは言う必要はない。またこむら返りのようなものも親指をひねれば治るものなので、それの治し方を勿体付けて教えるのはおかしいことである。当時、東京で行われていた天神真楊流というものは多く接骨を兼業しており、概ね人にこれ見よがしに腰窓にしていた。これらは安政年間に江戸お玉が池に住んでいた磯又右衛門の末流である。

東京は火事が多いことから四肢を挫くものも従って多く、その挫いた局部を引き伸ばすのに柔術の体勢を以てすれば便利であることから天神真楊流で行われていた[2]

柔術生理書

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天神真楊流井口松之助が著した『柔術生理書』に隈元実道が井口に語った話が記されている[4]

柔術生理書は活法と整骨を中心に記されている書籍であるが、隈元が語った内容は下記の通り活法を否定するものであった。

「振気流において活法を用いずまた接骨も無い。乱捕は投げるのみで締めなく只々離れ業のみを稽古するもの故、締業逆手は柔術のなすべき業に非ず。」

隈元の実戦経験

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隈元実道は明治維新の動乱、台湾征討西南戦争秩父事件日清戦争北清事変日露戦争など明治時代の戦争には殆ど参加しており、日露戦争を除いては白兵戦で負傷しなかったという[1]


振気流の門人

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山澄清三、古楠顕理(イギリス人)、成富道正、武田真一郎、隈元義秀


脚注

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  1. ^ a b c d e 隈元義秀 編『武道教範 附 體育演武必携白兵術に就いて』芳山房、1940年
  2. ^ a b c d e 隈元実道 著『武道教範 訂四版』静思館、1897年
  3. ^ “隈元憲兵大尉の葬儀”. 東京朝日新聞朝刊: p. 4. (1905年3月13日) 
  4. ^ 井口松之助 著『柔術生理書』魁真棲、1896年

参考文献

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