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阿蘇 (フェリー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿蘇
別府観光港に接岸中の本船
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本の旗 日本
所有者 広別汽船(1970-1989)
瀬戸内海汽船(1989-1992)
運用者 広別汽船(1970-1989)
瀬戸内海汽船(1989-1992)
建造所 田熊造船
改名 阿蘇(1970-1989)
インランドシー(1989-1992)
経歴
進水 1970年
竣工 1970年
就航 1970年10月23日
運航終了 1992年
要目
総トン数 1,625 トン
全長 74.4 m
機関方式 ディーゼル
主機関 ダイハツディーゼル 8DSM-26 2基[1]
推進器 2軸
出力 2,352 kW[1]
最大速力 17.7ノット
航海速力 16.5ノット
旅客定員 790名
車両搭載数 乗用車24台
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阿蘇(あそ)は、広別汽船が運航していたフェリー。後に瀬戸内海汽船クルーズ客船としても運航された。

概要

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宇和島運輸瀬戸内海汽船が共同出資して設立された広別汽船の第一船として田熊造船で建造され、1970年10月23日に呉 - 広島 - 別府航路に就航した。1989年4月、由布の就航により引退。

その後瀬戸内海汽船へ売却、宿泊型クルーズ客船として改装を受け、インランドシーに改名し1989年7月に就航[2]、瀬戸内海汽船としては1964年就航の観光フェリーシーパレス1979年就航の周遊船「南十字星」に続くクルーズ船となった。広島 - 神戸間にて月1回一泊二日の定期運航を行い[2]、1991年には広島 - 大阪間での運航となったが[3]、その後は利用客数が伸びず、早くも1991年10月には運航休止となり、1992年に海外売船された。

就航航路

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広別汽船

就航後、想定を上回る旅客需要に対して長浜・上関フェリーながはまを用船して投入、1974年に第二船の鶴見が就航したが、オイルショックによる旅客減で翌1975年には日本カーフェリーに売却され、その後、引退まで本船のみで就航した。

瀬戸内海汽船

設計

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車両は乗用車のみ搭載可能で、船体後方が2層の車両甲板となっていた。車両甲板は可動式で、荷役の際は上段へ車両を搭載した後、上段を上昇させて下段の搭載を行った。

事故・インシデント

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機関損傷

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1989年12月1日、15時ごろ、広島港で錨泊中の本船は、左舷主機の試運転を行おうとしたところ、主軸受やクランクピン軸受のメタルがクランク軸に焼付いて起動できなかった。点検により、左舷主機3番シリンダのクランクピン軸受メタルなどの焼損が発見されたため、入渠してクランク軸、主軸受メタルなどを交換、修理が行われた。事故原因は、11月17日に行った左舷主機の試運転の際に、潤滑油系統の3方コックの誤操作から、左舷主機が90秒程度のあいだ潤滑油切れの状態で運転され、軸受メタルに焼付きの前兆が発生したが、その後の点検が不十分で軸受メタルの異常が発見されず運転が継続されたため、とされた[1]

脚注

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  1. ^ a b c 広島地方海難審判庁 (27 June 1991). 平成2年広審第120号 旅客船インランドシー機関損傷事件 (PDF) (Report). 海難審判・船舶事故調査協会. 2016年8月27日閲覧
  2. ^ a b 広島-神戸間クルーズ来年から大阪まで延長 - 野田経済1990年8月号
  3. ^ IRC調査 遠藤太志「瀬戸内海クルージング・マーケットの現状と課題」 - IRC monthly 1991年8月号(いよぎん地域経済研究センター)