阿波山上神社
阿波山上神社 | |
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所在地 | 茨城県東茨城郡城里町阿波山664-1 |
位置 | 北緯36度31分9秒 東経140度21分46秒 / 北緯36.51917度 東経140.36278度座標: 北緯36度31分9秒 東経140度21分46秒 / 北緯36.51917度 東経140.36278度 |
主祭神 | 少彦名命 |
社格等 |
式内社(小) 旧郷社 |
創建 | 大宝元年(701年) |
別名 | 降木明神 |
例祭 | 4月15日 |
地図 |
阿波山上神社(あわやまのうえのじんじゃ[1]、あわやまのえのじんじゃ[2])は、茨城県東茨城郡城里町阿波山にある神社。「降木明神」の別名がある。「延喜式神名帳」の「阿波山上神社」に比定されている。旧社格は郷社[1]。例祭は4月15日[1]。
概要
[編集]阿波山上神社は、城里町北部の桂地区にある。境内の西側に沿うように国道123号が通っている。「山上」を冠する社名にもかかわらず、一帯は那珂川と桂川に挟まれた平地である。『神社覈録』に「古老伝言、昔者大山村呼爲上粟山、粟野村呼爲下粟山、祠即在二村之上、故祠有阿波山上之称矣」とあり、粟山の上下二ヶ村のうち、上粟山に鎮座していたことから、阿波山上神社の称が生じたという口碑が記されている。この伝承に基づけば、社名には元々「山上」の意は含まれていない。
「阿波(あわ)」は延喜式神名帳の阿波山上神社のほか、『倭名類聚抄』の那珂郡阿波郷にも見える古い地名である。『常陸国風土記』の那賀郡の条にある「自郡東北挟粟河而置駅家(郡より東北、粟河を挟みて駅家を置けり)」の「粟河」は那珂川の別名であり、これは阿波郷を通ることに因んだものとされている[3]。阿波郷は、現在の「阿波山」と、南隣の「粟(旧粟村)」を合わせた地域と考えられている。『新編常陸国誌』に「是常国に粟を生ぜし処なりと」とあり、常陸国における粟の発祥の地という伝承がある。
『新編常陸国誌』に、従来、この地一帯は粟栽培の好適地であることから「粟」と呼ばれていたが、好字令を受けて「阿波」の二字を借りたという考察がある[4]。中世以降の文献資料には、依然として「粟」の字を含んだ地名(粟郷、上粟、下粟等)が見られる。正平10年(1355年)、佐竹義篤によりこの地に封じられた佐竹義孝は大山氏を名乗り、島状の丘陵にある大山城を居館とした[5]が、「大山」は「粟山」の転訛であるという。また、この地にいた佐竹義盛の弟義有は「粟刑部大輔」を称し、「粟殿」と呼ばれていた。なお、「大山」は江戸時代末期(天保年間)に阿波山村と改称されるまで旧村名となった。
祭神
[編集]- 童子姿の神が手に粟穂を持ち、大杉に降臨したという伝承から「降木明神(佐加利子明神[6][4])」の別名がある。『新編常陸国誌』に「本殿の坤方に降木山、降木原などあり」とあり、この伝承に因んだ地名も存在した。
- 神体は童子の姿をした木造立像である。『新編常陸国誌』に「神体は木製の立像にて束帯なり」とあり、『府県郷社明治神社誌料』に「御神体は童形に座ます」とある。
- 少彦名命は、国造りを終えた後、淡島で粟茎(あわがら)に弾かれて常世国に渡ったという、粟に由縁のある神である(『日本書紀』)。
- 神木は杉である。境内の「御神木由来」によれば、かつて二代目にして樹齢千年ともいう巨杉が「大杉様」として崇敬されていたが、昭和47年9月18日の落雷により炎上し、倒木の危険が生じたことから伐採された(昭和48年7月5日神社本庁承認)。「大杉様」の苗から現在の神木が育っている。
境内社
[編集]八幡神社(応神天皇)、富士神社(木花開耶姫命)、疱瘡神社(月読命)、天満神社(菅原道真)、天王神社(素盞嗚尊)、伊勢神明社、稲荷神社(倉稲魂命)、東照天満神社の8社がある[7]。伊勢神明社と東照天満神社を記載していない資料もある。
歴史
[編集]『日本三代実録』の巻49、仁和2年12月9日癸丑(886年)に「授常陸國從五位下阿波神從五位上」とあり、「阿波神」として從五位上に昇叙した。「延喜式神名帳」では常陸国那賀郡7座(大2座小5座)のうちの小社「阿波山上神社」として記載された。旧桂村には同じく常陸国那賀郡の小社「石船神社」がある。
建保4年(1216年)、親鸞が当地にあった阿弥陀寺を頼って大山草庵を結び、常陸奥郡の布教伝道の地としたという(大山草案の由来)。参道の入口に大山草案跡の石碑と由来を記した案内板があり、延命地蔵尊が安置されている。
延徳2年(1490年)、太田城主の佐竹義舜が奸臣により孫根城に追われた時に、当社に戦勝祈願したという伝承がある。義舜は神徳を感じて、正月に門松を飾らない氏子の慣習に従ったという(『城北郷土読本』)。
中近世にかけて、歴代領主により崇敬を受けた。
- 天文10年11月(1541年)、大山義在が社頭を再興した(棟札)。
- 天正10年(1592年)、大山義勝が修営を行った(棟札)。
- 江戸時代、水戸城主の徳川斉昭が15石の社領を寄進した。また社殿を修繕した[1]。
近代社格制度においては、郷社に列した。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 中村 (1981)。 30-31頁。
- ^ 茨城県神社庁の神社台帳には「あばさんじょうじんじゃ」と読みが振られているが、地名としての阿波山は「あわやま」が正しい(概要参照)。『神社覈録』には「安八夜萬乃宇倍」(あはやまのうへ)、『府県郷社明治神社誌料』には「アハヤマノヘノ」、『城北郷土読本』には「あはやまのへの」と読みが振られている。「やまのえ」は「やまのうえ」の変化と考えられる。
- ^ 『標注古風土記』那賀郡の項。
- ^ a b 『新編常陸国誌』神社の条の「阿波山上神社」に「降木」の由来となる伝承が、郷里の条の「阿波郷」に地名に関する文献資料及び考察がそれぞれ記載されている。また、村落の条の「大山」に「佐加利子明神」として社地、社殿及び神体等に関する記述がある。
- ^ 城里町商工会公式Webサイト、観光案内(旧桂地区)「大山城跡と大山寺 」。2016年10月1日閲覧。現在、大山城址には天守風の建造物を擁する宿泊施設(ホテル大山城)がある。
- ^ 『大日本地名辞書』阿波郷及び阿波山上神社の項。
- ^ 『府県郷社明治神社誌料』阿波山上神社の項。
参考文献
[編集]- 中村宏「阿波山上神社」『茨城県大百科事典』、茨城新聞社、1981年
- 中山信名、栗田寛編『新編常陸国誌 巻下』。積善館。明治32-34年(1899-1901年)。
- 吉田東伍『大日本地名辞書 下巻 二版』。冨山房。明治40年10月17日(1907年)。
- 明治神社誌料編纂所編『明治神社誌料 府県郷社(上)』。明治神社誌料編纂所。明治45年(1912年)
- 鈴鹿連胤撰『神社覈録 下編』。皇典研究所。明治35年(1902年)。
- 茨城県東茨城郡北部教育会編纂『城北郷土読本』茨城県東茨城郡北部教育会。昭和9年。
- 城里町商工会公式Webサイト。