関田繁里
関田 繁里 せきた しげさと | |
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生誕 |
1888年9月28日 大日本帝国 高知県 |
死没 |
1937年5月18日(48歳没) 大日本帝国 東京府 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1911年 - 1937年 |
最終階級 | 海軍大佐 |
関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、1888年 (明治21年)9月28日 - 1937年(昭和12年)5月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。位階は正五位。勲等は勲三等。
経歴
[編集]1888年9月28日、高知県長岡郡稲生村において井上虎吉と益の三男として生まれる。高知県立中学海南学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業。卒業時の席次は149名中78番。少尉候補生として練習艦隊の浅間乗組[1]、香取乗組を経て、1911年12月、海軍少尉に任官。1913年11月、海軍中尉に任官。1914年5月、海軍砲術学校普通科を卒業、同年12月、海軍水雷学校普通科を卒業。曙乗組、鞍馬乗組、扶桑乗組、扶桑分隊長心得を経て、1917年12月、海軍大尉に任官。1918年4月、海軍大学校乙種学生の教程を卒業、同年12月、海軍砲術学校高等科を卒業。榛名乗組、檜乗組を経て、扶桑副砲長兼分隊長、鹿島副砲長兼分隊長、海軍砲術学校教官兼副官を歴任。鹿島乗組時代、皇太子裕仁親王の欧州訪問に供奉。1921年9月、母方の叔父である関田柳馬の娘豊榮の婿養子となり、井上から関田に改姓。
1923年8月、海軍大学校を受験[2]。同年9月1日、横須賀にて関東大震災に遭う。これを機に玉川奥澤村[3](現在の東京都世田谷区奥沢)に移住。同年12月、海軍少佐に任官。同月、海軍大学校に入学[4]。1924年から、大正十三年海軍大演習審判官、第五戦隊司令部、由良乗組、大正十四年海軍小演習審判官を経て、1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業。同年12月、保津艦長に就任、第一遣外艦隊所属となる[5]。1927年5月、第一遣外艦隊司令部、同年6月、第一遣外艦隊参謀。同年10月、海軍軍令部出仕兼海軍省軍務局第一課勤務。同年12月、大礼使典儀部勤務。1928年から、大礼に関する海軍事務委員、海軍省軍務局局員第一課勤務兼海軍艦政本部技術会議議員、靖国神社祭典掛、恩賜研学資金賞者選考委員、特命検閲使、大礼特別観艦式事務委員を歴任、大礼御幸供奉や昭和天皇即位大典の参列なども務め、同年12月、海軍中佐に任官。1929年から、昭和四年四月靖国神社臨時大祭委員、大礼記録編纂委員会委員、昭和五年大演習観艦式事務委員などを歴任。1930年、ロンドン海軍軍縮条約の締結に関与。その後、海軍軍令部出仕を経て、1931年の3月から10月まで欧米各国へ出張。同年12月、伊勢副長に就任。1932年11月、佐世保軍需部第一課長兼部員[6]。同年12月、海軍大佐に任官。
1935年1月、九州航空隊(仮称)設立準備委員。同年8月、上海へ出張。同年10月、海軍軍令部出仕兼海軍省出仕、海軍軍事普及部幹事兼委員[7]、鹿屋航空隊(仮称)設立準備委員。1936年2月26日、いわゆる二・二六事件が発生すると、総理官邸への弔問のほか海軍武官として事件の対応に追われる。同年7月、情報委員会幹事。1937年2月、二千六百年委員会委員。同年5月18日、東京府東京市世田谷区の自宅で亡くなる。享年48。
年譜
[編集]- 1888年
- 9月28日:生誕。
- 1906年:高知県立中学海南学校を卒業。
- 1907年
- 9月21日:海軍兵学校に入学。
- 1910年
- 1911年
- 1912年
- 1913年
- 1914年
- 1915年
- 12月13日:鞍馬乗組。
- 1916年
- 12月1日:扶桑乗組。
- 1917年
- 1918年
- 4月
- 15日:海軍大学校乙種学生の教程を卒業。
- 同日:海軍砲術学校高等科に入学。
- 12月
- 1日:海軍砲術学校高等科を卒業。
- 同日:榛名乗組。
- 4月
- 1919年
- 1920年
- 1921年
- 1月20日:鹿島副砲長兼分隊長。
- 3月6日:中城湾を出港して皇太子裕仁親王の欧州訪問に供奉。
- 9月2日:館山着。
- 12月1日:海軍砲術学校教官兼副官。
- 1923年
- 12月
- 1日:海軍少佐。
- 同日:海軍大学校甲種学生。
- 12月
- 1924年
- 9月1日:大正十三年海軍大演習審判官。
- 1925年
- 1927年
- 1928年
- 1929年
- 2月27日:特命検閲使。
- 4月10日:昭和四年四月靖国神社臨時大祭委員。
- 6月1日:大礼記録編纂委員会委員。
- 1930年
- 5月29日:昭和五年大演習観艦式事務委員。
- 6月20日:特命検閲使。
- 12月20日:海軍軍令部出仕。
- 1931年
- 1932年
- 1935年
- 1936年
- 7月1日:情報委員会幹事。
- 1937年
- 2月13日:二千六百年委員会委員。
- 5月18日:死去。
栄典
[編集]- 1912年
- 2月10日:正八位に叙される。
- 1914年
- 1月30日:従七位に叙される。
- 1915年
- 1916年
- 1月1日:一級俸を授与される。
- 1918年
- 1月30日:正七位に叙される。。
- 1919年
- 12月1日:二級俸を授与される。
- 1920年
- 10月25日:勲五等瑞宝章を授与される。
- 11月1日:大正四年乃至九年戦役の功により勲四等瑞宝章、大正三年乃至九年戦役従軍記章、金500円を授与される。
- 1921年
- 12月1日:一級俸を授与される。
- 1923年
- 3月30日:従六位に叙される。
- 1926年
- 6月19日:天皇陛下状況実視のため侍従武官御差遣酒肴料金1円を授与される。
- 1928年
- 1929年
- 1月30日:勲三等瑞宝章を授与される。
- 9月5日:昭和二三年支那騒乱事件及び昭和三年支那事変における功により金260円を授与される。
- 1932年
- 12月28日:従五位に叙される。
- 1934年
- 4月29日:昭和六年乃至九年事変における功により昭和六年乃至九年事変従軍記章、金450円を授与される。
- 1937年
親族
[編集]生家
[編集]養家
[編集]- 養父:関田柳馬
- 養母:冨士
- 養叔父:土居純橘 - 民権運動家・社会活動家。
妻子
[編集]- 妻:豊榮 - 関田柳馬・冨士の長女。
- 長男:関田英里 - 元高知大学学長。高知市立自由民権記念館初代館長。
- 二男:関田典里 - 元三菱倉庫取締役。
脚注
[編集]- ^ 1910年10月16日、横須賀を出発し、ホノルル、サンフランシスコ、サンペドロ、マサリーニョ、アカプルコ、パナマ、アカプルコ、ホノルルの順にハワイ、アメリカ西海岸を廻航。1911年3月6日、横須賀に帰着。
- ^ 宿で同郷の山崎重暉にばったり会う。二人は試験前日にもかかわらず酒を飲み交わし、酔っ払って寝てしまったという。詳しくは山崎重暉著『回想の帝国海軍』を参照のこと。
- ^ 近隣には軍人仲間の松木益吉、三川軍一、谷村豊太郎らも住んでいた。海軍武官が多く移住してきたこの地は、のちに「奥澤海軍村」と呼ばれるようになる。横須賀鎮守府・海軍省・海軍大学校などを往来する海軍武官にとって、奥澤村は立地が良かった。また、当時の海軍武官は関東大震災を経験して都市の脆弱性を目の当たりにし、郊外の安全性を認識していた。
- ^ 同期の乗馬仲間は、山崎重暉、高木武雄、阿部弘毅、角田覚治、近藤泰一郎、奥田喜久司の6人。
- ^ 第一遣外艦隊所属の間、武漢から重慶あたりまで遡江して軍閥の呉佩孚と会談したほか、劉湘、楊森、唐生智ら中国要人や、欧米の武官、外交官と接触した。
- ^ 赴任中の1934年3月、佐世保鎮守府長官米内光政の時に友鶴事件が発生している。
- ^ この頃、徳富蘇峰と関わりを持つ。徳富蘇峰記念館には「軍令部出仕兼海軍省出仕(軍事普及部第一課長) 海軍大佐」と記された関田繁里の名刺が残されている。