関口安太郎
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関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、1866年2月10日(慶応元年12月25日[1])- 1911年(明治44年)7月11日[2][3])は、明治期の畜産業者、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]上野国勢多郡下大島村[4][5](群馬県[2]南勢多郡木瀬村、勢多郡木瀬村[3]を経て現前橋市下大島町)で、代々前橋藩の御蔵番を務めた関口家当主・仲次郎、りせ の長男として生まれた[4]。その後、前橋曲輪町(現:前橋市大手町)に転居した[4][6]。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し[4][5][6]、1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)を卒業[2][3][4][5]。
1894年(明治27年)群馬県会議員に選出され[4][5]1896年(明治29年)まで在任[4][6]。1902年(明治35年)8月の補欠選挙で県会議員に再選され[6]、同年10月5日まで在任した[4]。この間、非立憲政友会の立場で活動し実業クラブに所属し、廃娼論を唱えた[4][5]。
1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市)で当選し[7]、次の第10回総選挙でも再選され[8][6]、最後は無所属となり衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。任期途中の1911年7月に病のため死去した[4][5][9][6]。
また、赤城牧場を経営し、前橋乳業株式会社を設立した[2][3][4][5]。
国政選挙歴
[編集]- 第6回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1898年8月、憲政本党)落選[10]
- 第9回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市、1904年3月、無名倶楽部)当選[7]
- 第10回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市、1908年5月、猶興会)当選[8]
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第二十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報号外〉、1908年、8頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』343-344頁。
- ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』245頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『群馬県人名大事典』290-291頁。
- ^ a b c d e f g 『群馬新百科事典』449頁。
- ^ a b c d e f 木瀬村誌編纂委員会 1995, pp. 751–752.
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』10頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』50頁。
- ^ 『官報』第8416号、明治44年7月12日。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』79頁。
参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。
- 木瀬村誌編纂委員会『木瀬村誌』1995年9月20日(原著1995年9月20日)。doi:10.24484/sitereports.101883。 NCID BN1378655X 。