間部詮長
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳5年(1715年) |
死没 | 明和3年9月17日(1766年10月20日) |
別名 | 才三郎→図書 |
幕府 | 江戸幕府 西丸書院番 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
氏族 | 間部氏 |
父母 | 父:間部詮衡、母:秋田季品の娘 |
兄弟 | 詮長、詮綽、詮光、女子(駒井政潔妻)、女子(間部詮之養女・細田時敏妻) |
妻 | 秋田季成の娘 |
子 | 詮番、女子(安部信久養女・安部信正妻)、女子(一柳直里妻)、遠山則象 |
間部 詮長(まなべ あきなが)は、江戸時代中期の旗本。赤坂間部家当主・間部詮衡の長男。妻は秋田季成の娘[1]。
正徳5年(1715年)、間部詮衡の長男として生まれる。享保10年(1725年)11月、赤坂間部家の家督と遺領を継ぎ小普請になる。享保16年(1731年)4月、詮長の屋敷が焼失する。元文元年(1736年)7月、才三郎から図書に改名する[2]。寛保元年(1741年)10月には西丸書院番になり世子時代の徳川家重に仕えた[3]。延享2年(1745年)10月、鯖江藩主間部詮方の名代を勤めた褒美として、鯖江藩から「干鯛一折・御樽代三百疋」を賜る[4]。宝暦2年(1752年)7月、屋敷地を愛宕下から三河台へ移転する[4]。明和3年(1766年)9月、死去。享年52。家督は長男の詮番が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
- 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。