間部詮邦
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明3年12月13日(1784年1月5日) |
死没 | 弘化2年11月7日(1845年12月5日) |
別名 | 為次郎、式部、鉄四郎、主水、覚翁(致仕号) |
官位 | 従五位下・主殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 小納戸、小姓、使番、大坂目付代 |
主君 | 徳川家斉 |
氏族 | 間部氏 |
父母 | 父:間部方元、母:間部詮綽の娘 |
兄弟 | 詮邦、女子(阿部正永の妻) |
妻 | 松平定胤の娘 |
子 | 詮昌、男子(早世)、詮常(早世)、詮直、女子(早世)、女子(山岡景英妻)、詮由、男子(早世)、女子(早世)、詮論、女子 |
間部 詮邦(まなべ あきくに)は、江戸時代後期の旗本。本所間部家当主・間部方元の長男。
天明3年(1783年)、間部方元の長男として生まれる。寛政12年(1800年)11月、本所間部家の家督を継ぎ小普請入りした。享和元年(1801年)5月14日、西丸小姓組番士になる。文化2年8月29日、鉄四郎と名乗り(文化11年(1814年)4月27日には主水に改名している)、文化10年(1813年)12月12日、小納戸に異動し、同年12月16日に布衣の着用を許された。その後、文化12年(1815年)5月24日に小姓となり、同年12月16日、主殿頭を叙任した。文政6年(1823年)1月11日に使番、文政12年(1829年)6月4日に大坂目付代になる。天保4年(1833年)8月16日、病気を理由に辞職。天保8年(1837年)11月16日、隠居し、翌年7月11日に剃髪し覚翁と名乗った[1]。弘化2年(1845年)11月、死去。享年63。家督は長男の詮昌が継いだ。
参考文献
[編集]- 小川恭一編『寛政譜以降旗本百科事典』第五巻、東洋書林、1998年。
- 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
- 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育 : 森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。