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間部詮邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
間部詮邦
時代 江戸時代後期
生誕 天明3年12月13日1784年1月5日
死没 弘化2年11月7日1845年12月5日
別名 為次郎、式部、鉄四郎、主水、覚翁(致仕号)
官位 従五位下主殿頭
幕府 江戸幕府 小納戸小姓使番大坂目付
主君 徳川家斉
氏族 間部氏
父母 父:間部方元、母:間部詮綽の娘
兄弟 詮邦、女子(阿部正永の妻)
松平定胤の娘
詮昌、男子(早世)、詮常(早世)、詮直、女子(早世)、女子(山岡景英妻)、詮由、男子(早世)、女子(早世)、詮論、女子
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間部 詮邦(まなべ あきくに)は、江戸時代後期の旗本本所間部家当主・間部方元の長男。

天明3年(1783年)、間部方元の長男として生まれる。寛政12年(1800年)11月、本所間部家の家督を継ぎ小普請入りした。享和元年(1801年)5月14日、西丸小姓組番士になる。文化2年8月29日、鉄四郎と名乗り(文化11年(1814年)4月27日には主水に改名している)、文化10年(1813年)12月12日、小納戸に異動し、同年12月16日に布衣の着用を許された。その後、文化12年(1815年)5月24日に小姓となり、同年12月16日、主殿頭を叙任した。文政6年(1823年)1月11日に使番、文政12年(1829年)6月4日に大坂目付代になる。天保4年(1833年)8月16日、病気を理由に辞職。天保8年(1837年)11月16日、隠居し、翌年7月11日に剃髪し覚翁と名乗った[1]弘化2年(1845年)11月、死去。享年63。家督は長男の詮昌が継いだ。

参考文献

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  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本百科事典』第五巻、東洋書林、1998年。
  • 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
  • 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育 : 森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。

脚注

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