間部詮論
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保2年(1831年) |
死没 | 明治7年(1874年)1月26日 |
別名 | 季三郎、藤太郎、内膳(正)、交逸 |
官位 | 従五位下・美作守 |
幕府 | 江戸幕府 小姓 |
主君 | 徳川家茂→慶喜 |
氏族 | 間部氏 |
父母 |
父:間部詮邦、母:松平定胤の娘 養父:間部詮昌 |
兄弟 | 詮昌、男子(早世)、詮常(早世)、詮直、女子(早世)、女子(山岡景英妻)、詮由、男子(早世)、女子(早世)、詮論、女子 |
妻 | 石野養方の伯母 |
子 | 詮功(横山錞三郎五男)、タキ、ツル |
間部 詮論(まなべ あきとき)は、江戸時代後期の旗本。間部詮邦の子。兄である本所間部家当主・間部詮昌の養子になり、当家の家督を継ぐ。新政府軍に恭順し、江戸の治安維持に協力した。
天保2年(1831年)、間部詮邦の子として生まれる。兄・詮昌の養嗣子になり、文久3年(1863年)12月、本所間部家の家督と遺領を継ぐ。慶応元年(1865年)10月、小姓になるが、翌2年(1866年)11月に解任され勤仕並寄合に列する。
慶応4年(1868年)8月、新政府軍に恭順し、本所間部家の知行所は朝臣領として本領安堵された。同年10月、新政府の命令で、詮論は東京府(江戸)に兵を派遣し、市中取り締りにあたった[1]。同年12月、新政府の行政官・会計官の命令で旧知行所の実質支配は旗本から最寄りの府県に移行され、旗本は翌年から府県が徴収した年貢米を受給することになった[2]。明治2年(1869年)8月、家督を養子の詮功に譲る。明治7年(1874年)、死去。享年44歳。
脚注
[編集]- ^ 神奈川県企画調査部県史編纂室 1976, p. 262.
- ^ 仲田正之 & 2002年, pp. 28–29.
参考文献
[編集]- 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』第五巻、東洋書林、1998年。
- 神奈川県企画調査部県史編纂室編『神奈川県史』資料編8近世(5上)、財団法人神奈川県弘済会、1976年。
- 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」(『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』)亜紀書房、1998年。
- 仲田正之「明治に残る元禄地方直しの影「朝臣領」―封建制度の終焉について―」『駒沢史学』59号、駒沢史学会、2002年