長野藤継
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時代 | 室町時代後期 |
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生誕 | 宝徳元年(1449年) |
死没 | 文明18年7月5日(1486年8月4日) |
別名 | 政高 |
戒名 | 良祥院殿秋月浄慶大禅定門 |
官位 | 左衛門佐 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義政→義尚 |
氏族 | 長野工藤氏 |
父母 | 父:長野持藤 |
兄弟 | 政藤、藤継、藤直 |
子 | 養子:金丸忠経 |
長野 藤継(ながの ふじつぐ)は、室町時代後期の武将。長野工藤氏11代当主。
生涯
[編集]宝徳元年(1449年)、9代当主・長野持藤(宗忠)の子として誕生。寛正3年(1462年)に兄で10代当主・政藤が早世したため、家督を継いで11代当主となる。
応仁元年(1467年)からの応仁の乱では東軍に属し、10月の相国寺の戦いでは、長野氏は安富元綱、雲林院らと共に相国寺に立て篭もり東門を守備したが、三条殿を守備していた伊勢国の国人・関盛元と備前国国人である松田次郎左衛門尉が敗れ、火が放たれると退却した[1]。
応仁2年(1468年)2月、伊勢守護に任じられた東軍の土岐政康が入国するとこれに従い、北畠教具が侵攻してくると土岐氏と協力して北畠家と戦った。
その後、北畠家が東軍となると西軍の美濃国守護・土岐成頼と同盟し、文明5年(1473年)10月11日、長野(藤継)の要請で斎藤利国が美濃から伊勢桑名郡に侵攻[2]、大井田城等を攻め、10月21日には斎藤妙椿が数万騎を率いて出陣[2]、石丸利光が大将となって10月29日に東軍勢が篭る梅戸城を落とした[2]。
文明9年(1477年)応仁の乱終結後、文明11年(1479年)に北畠政郷が侵攻して来た際には、これを破って長野氏の勢威を高めた。
文明18年(1486年)7月5日、細川政元による正親町三条公治邸焼き討ちに巻き込まれて死去[3]。享年38。跡を弟・藤直が継いだ。