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長野正義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長野正義
ながの まさよし
生年月日 1900年11月3日
出生地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市戸塚区
没年月日 (2000-11-10) 2000年11月10日(100歳没)
出身校 広島高等師範学校文科第1部卒業
(現・広島大学教育学部)
前職 横須賀市教育長
所属政党 無所属

当選回数 4回
在任期間 1957年7月10日 - 1973年7月9日
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長野 正義(ながの まさよし、1900年明治33年〉11月3日[1][2] - 2000年平成12年〉11月10日[1])は、日本政治家1957年から1973年まで4期16年の間、横須賀市長を務めた。

経歴

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横浜市戸塚区舞岡町生まれ。1924年大正13年)に広島高等師範学校(現・広島大学教育学部)文科第1部を卒業した[2]1947年昭和22年)、横須賀市立不入斗中学校校長となった[2]。その後、横須賀市教育長[注釈 1]になった[2]

1957年横須賀市長選挙

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1957年(昭和32年)に横須賀市長選に社会党の推薦と一部の自民党員の支持を受け立候補、当時の現職市長で自民党公認の梅津芳三を破って当選した[4][5]


※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
長野正義56無所属44,409票50.7%社会推薦
梅津芳三65自由民主党33,185票37.9%-
大久保英俊-無所属-9,738票11.1%-
肥後亨-諸派-227票0.3%-

同年7月10日に就任した[6]

米軍基地を抱える横須賀市における革新系市長として市政の運営にはさまざまな苦労が伴った。それを象徴する出来事が、空母ミッドウェイの母港化を認めるという苦渋の選択(1972年)であった。空母の母港化については、支持を受けていた社会党の猛反発を受け、1973年(昭和48年)7月9日に市長を退任した[6]

エピソード

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旧制中学(神奈川県立横浜第一中学校)教員時代に障害のある生徒が受験を希望してきた。周囲は前例がないと反対したが、長野が自分が担任となり責任を持つと発言したことで受験が可能となったという。その生徒は、後に横浜市長・社会党委員長となる飛鳥田一雄であった。さらに後の横須賀市長転身の契機が、当時社会党衆議院議員であった飛鳥田一雄の薦めであり、彼も師の選挙を手伝ったという[7]

脚注

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注釈

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  1. ^ 少なくとも、1953年(昭和28年)段階での在職が確認出来る[3]

出典

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  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、162頁。
  2. ^ a b c d 産経日本紳士年鑑 第1版 1765コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 横須賀市勢要覧 昭和28年版 53コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 神奈川年鑑 昭和34年度版 33コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 神奈川年鑑 昭和34年度版 34コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ a b 日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み 第1巻 536コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ 『生々流転 飛鳥田一雄回想録』p15・17