長沢和雄
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府豊中市 |
生年月日 | 1950年7月1日(74歳) |
身長 体重 |
180 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、内野手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
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長沢 和雄(ながさわ かずお、1950年7月1日 - )は、大阪府出身の元アマチュア野球選手、監督。ポジションは外野手、内野手。
来歴・人物
[編集]関西大学第一高等学校では、エースとして1967年秋季近畿大会県予選準決勝に進むが桜宮高に敗退。1969年に関西大学に進学する[1]。腰を痛めたことで、2年生の春に外野手に転向した[2]。関西六大学野球リーグでは主軸打者として活躍し、同期のエース山口高志を擁し在学中7回優勝。1970年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で中京大に敗れ準優勝[3]。1972年の全日本大学野球選手権大会では決勝で慶大を降し16年ぶりに優勝[4]。この決勝戦では、7回に池田和雄の放った大飛球をフェンスに登って捕球、ピンチを救っている[5]。同年の第3回明治神宮野球大会でも決勝で法大を破り優勝を飾る[6]。他の大学同期に遊撃手の山口円がいた[1]。
卒業後は社会人野球の大丸に進み、主に中堅手として活躍。しかし1975年の都市対抗では三塁手として起用される。準決勝に進出するが、大昭和製紙北海道の左腕エース加藤英美に抑えられ敗退[7]。1976年の社会人野球日本選手権では準々決勝に進み本塁打を放つが、九州産交に惜敗[8]。当時のチームメイトには一塁手の土井池憲治、捕手で大学1年後輩の田中昭雄がいた。1977年は11本塁打を放ち、社会人ベストナイン(外野手)に選出された。また同年のインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の3位入賞に貢献[9]。
現役引退後は1988年から1998年まで大阪桐蔭高等学校監督をつとめる。1991年夏の甲子園では萩原誠、背尾伊洋らの活躍もあって初優勝を飾った[1]。2010年には帝塚山大監督となる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年