コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

長嶺豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ながみね ゆたか
長嶺 豊
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 日本の旗 日本佐賀県杵島郡若木村(現・武雄市
生年月日 (1943-11-05) 1943年11月5日
死没 (2022-07-07) 2022年7月7日(78歳没)
身長 164cm
体重 54kg(現役時)
血液型 O型
選手情報
所属 大阪支部
登録番号 1812
登録期 15期
特徴 自在
選手実績
デビュー日 1963年11月
選手引退日 2004年5月16日
記念優勝  11 回
SG優勝   1 回
GI/PGI優勝  10 回
通算優勝  73 回
通算勝率  6.59
通算勝利 出走8510回 2338勝
主要獲得タイトル
テンプレートを表示

長嶺 豊(ながみね ゆたか、1943年11月5日 - 2022年7月7日[1])は、佐賀県杵島郡若木村(現・武雄市)出身の元競艇選手

長嶺保は弟。

経歴

[編集]

小学校5年の時に大阪府大阪市へ移り、中学時代は野球に熱中したが、身長が思うように伸びず、進学をあきらめ競艇選手になる道を選んだ[2]。長嶺によると「裏街道に行ってもおかしくなかった」というほど荒んだ日々を送った時期もあったが、住之江で競艇のレースを観戦したのがきっかけで一念発起したという[3]。大阪府モーターボート競走会補助員を経て[4]、選手養成所の入所試験に2度目の受験で合格[3]1963年11月に競艇選手としてデビューし、ガッツあふれるプレーで[5]浪速のドン」と呼ばれる[3] [6]。一方で「プレッシャーに弱い」とも評され[7]、GIでの勝利数が10を超える一方でSGになかなか勝てなかったが、1993年第40回全日本選手権競走戸田)を優勝。50歳にしてSG初勝利を挙げ[6]、その時共に涙したファンも数多い[8]1999年賞金王シリーズ戦(住之江)では地元水面で、初日転覆の憂き目もその後怒涛の5連勝で優出して見せた。2000年4月に創設された「競艇名人戦」開会式で、選手班長として「若いもんがナンボのもんじゃい!」と言って会場を沸かせた。2001年2月15日若松一般戦で最後の優勝を飾り(5号艇2コース進入)[9]2003年8月10日多摩川一般戦「第36回報知新聞社賞レース」で最後の優出を果たした(4号艇3コース進入5着)[10]2004年5月16日徳山一般戦「山口新聞社杯争奪 第21回太華賞競走」最終日6Rで最後の勝利(5号艇3コース進入)を挙げ[11]、同日11Rが最後の出走(2号艇2コース進入6着)[12]となった。同年引退。

引退後はJLC解説者[3]サンケイスポーツ評論家を務めている。

2007年、ボートレースの殿堂入りを果たした[† 1]

2022年7月7日、腎臓病の悪化により死去[1]。78歳没。

獲得タイトル

[編集]

太字はSGレース

  • 1971年 - 児島開設19周年記念競走
  • 1972年 - 福岡開設19周年記念競走
  • 1981年 - 三国開設28周年記念競走
  • 1983年 - 近畿地区選手権競走(三国)
  • 1985年 - 近畿地区選手権競走(尼崎)、住之江開設28周年記念競走
  • 1986年 - 児島開設34周年記念競走、平和島開設32周年記念競走
  • 1987年 - 平和島開設33周年記念競走
  • 1989年 - 福岡開設36周年記念競走
  • 1990年 - 高松宮記念特別競走
  • 1992年 - 高松宮記念特別競走
  • 1993年 - 第40回全日本選手権競走(戸田)

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 木村幸治『水上の格闘者たち』講談社、1992年。ISBN 978-4-06-204715-9 
  • 長嶺豊「"浪速のドン"長嶺師匠の『ボート界への伝言』」『BOATBoy 2012年4月号』、日本レジャーチャンネル、2012年3月、58-59頁。