コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

長岡是季

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
長岡 是季
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天正14年(1586年
死没 万治元年(1658年1月8日
改名 幼名:与七郎→米田是季→長岡興季→長岡是季
別名 通称:米田監物、長岡正近、長岡興季
墓所 見性寺熊本県熊本市
西教寺滋賀県大津市
主君 細川興元忠興→浪人→豊臣秀頼→浪人→忠利光尚綱利
肥後国熊本藩家老職
氏族 越智姓米田氏
父母 父:米田是政
兄弟 是季、女(飯河宗信室)
是長是定
テンプレートを表示

長岡 是季(ながおか あきすえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将[1]。 通称米田監物。長岡正近、長岡興季とも。本名は米田是季。(「長岡」は主家・細川から与えられたもの。)

概要

[編集]

米田是季は熊本藩細川家4代(忠興・忠利・光尚・綱利)に渡り仕えた武将である。しかし主君との対立から大阪の陣での敵対、帰参、異例の出世等、波乱万丈の生涯を送ったことに関しては未だ不明な点が多い人物でもある。

そもそも、米田氏の先祖は大和越智一族で、足利義輝に仕え御伽衆を務めた。祖父の米田求政三好一党が義輝を暗殺した時に弟・足利義昭救出に功があったが、讒言のために足利家を追い出される。その後、細川家に仕えた。

*米田は「よねだ」ではなく、「こめだ」と読む。

生涯

[編集]

天正14年(1586年)、米田是政[2]の長男[3]として生まれる。幼名は与七郎。

初め、是季は、細川藤孝の次男細川興元のもとで番頭を務めていた。

是季は1600年関ヶ原の戦いに父とともに従軍して伊吹山で敵を討ち取る戦功があった。父・是政は岐阜城の戦いで戦死したが、「長岡(かつて細川家が織田信長から与えられた姓)」の姓と「興」の字を与えられた(以降、興季と名乗る)。

主君細川忠興豊前国中津33万9,000石に加増され小倉藩初代藩主となる。


慶長12年(1607年)に前年藩の重臣で、かつ興季の妹婿である飯河肥後の誅伐事件を不満として抗議し、主君・忠興の怒りを買い、浪人となる。

慶長19年(1614年)大坂の陣が起こると豊臣秀頼につき、大坂城に入城する。

旧主の次男で廃嫡された細川興秋[4]とともに大野治房組に所属する[5]。冬の陣では塙直之御宿政友らとともに池田忠雄に備え、11月17日蜂須賀至鎮の陣に夜襲をし直之の手の者が10、是季の手の者が13の首を挙げた。蜂須賀方は部将の中村右近が討死している(本町橋の夜戦)。

樫井の戦いでは直之・淡輪重政を見捨てた岡部大学を非難し、治房組から脱退したとも、夏の陣の落城の際、秀頼に別れを告げて落城するまで戦っていたが、家臣の勧めで城から落ち延びた、とも伝わる。

大坂城が落城すると落ち延び近江(坂本西教寺)で蟄居した[6]

なお、共に大坂の陣で戦った興秋は戦後、父・忠興から自栽を申し付けられている。[7]


元和8年(1623年)春[8]、忠興と小倉二代藩主・細川忠利[9]の呼びかけに応じて2千石で帰参する(一説に9年とも)。

徳川大坂城築城工事において活躍し、寛永2年(1625年)6千石5百石の家老に就任する。[10]寛永9年(1632年)、主君・忠利が豊前小倉40万石から肥後国熊本54万石の領主として加増・移封されている。

同11年(1634年)、1万石に加増される。[11]寛永14年(1637年)忠利・光尚に従い、島原の乱で活躍する。

同18年(1641年)、初代細川家熊本藩主忠利が死去。

同20年(1643年)正月10日ころ、熊本二代藩主細川光尚八代に祖父・三齋(忠興)を見舞っているが、興季も同僚の沢村吉重とともに同行している。これは三齋が望んで招いたこととされている。[12]

正保2年(1645年)、忠興が死去。

同4年(1647年)、長崎ポルトガルの使節2隻が来航した際には、長崎奉行指揮の下、藩の軍勢1万余人を率いて出陣し、彼等を追い払う功を立てた(この時に動員された諸藩の総兵力は一説に船数1500余隻、人数も一説に5万余人。オランダ人が耳に入れた噂によれば、10万人集めるつもりだったという)。江戸からは大目付が応援に駆け付けている。

慶安2年(1649年)、光尚が死去。7歳と幼かった細川綱利が三代目藩主を継ぐ。幼年の藩主を幕府に認めてもらうために、細川家中で奔走して、取り潰しを免れた。

万治元年(1658年)、正月8日に死去。享年73。[13]家臣6名が殉死している。


子孫は熊本藩の上卿三家・米田氏(1万5000石、家老二座)称長岡姓(長岡監物)として、子の是長以降、是庸、是春、是福、是知、是睦、是容、是豪、虎雄(是保)と続き、維新後男爵となっている。

逸話

[編集]

・弓の名手だったといわれる。

・浪人になった一説に、主君・忠興から、興秋の監視役として大阪へ入城したとも伝わる。[14]

小幡景憲は豊臣方の武将を評して「武事を知る者は真田・御宿・塙・後藤・米田くらい」という主旨のことを板倉勝重に報告している。[15]大阪浪人の中では30歳・若年の将ながら高く評価されている。

・元和八年の春の帰参に関して「熊本縣史料・近世編第二p377」に記録がある。

【監物人数之覚-一、壱人ハ 自身 -一、壱人ハ 母 -一、壱人ハ 監物女房共-一、壱人ハ せかれ(是長・五歳)-一、貮人ハ 侍 -一、八人ハ 小性 -一、壱人ハ 臺所人-  一、七人ハ 女房達 -一、四人ハ はした -一、拾六人ハ 中間・小者-上下合四十貮人 -外ニ馬壱疋】

とあり、大人数を引き連れての帰参であった。浪人の身でありながら、どのような生活をしていたのか未だ不明である。

・是季は大阪浪人の一般の仕官解禁より一年半ほど早い。[16]これは忠利が幕府へ申し入れてのことである。忠利の力量及び是季の才覚の必要性が窺える。

・浪人中は、近江国大津の西教寺に寄寓していたともされ、同寺には米田是直が祀ったと思われる一族の墓が残っている。この西教寺は明智光秀との縁も深く、米田是直の父、米田是庸は藩主一門南条元知の子であるが母の系統は細川興秋細川ガラシャ明智光秀へと繋がる。

脚注

[編集]
  1. ^ 柏木輝久著・北川央監修『大坂の陣 豊臣方人物事典』(宮帯出版社、2016年)p478
  2. ^ 1558~1600。元足利将軍家家臣・細川藤孝家臣米田求政の子。
  3. ^ 『肥後国史』
  4. ^ 興秋は剃髪の後、京の祖父細川幽斎を頼る。
  5. ^ 『大阪城誌』
  6. ^ 柏木輝久著・北川央監修『大坂の陣 豊臣方人物事典』(宮帯出版社、2016年)
  7. ^ 実は、興秋は熊本天草に逃れ、宗専と名を変えて子孫は大庄屋として続いたとするもので、詳しい興秋系図がその庄屋家から享和2年(1802年)に天領だった天草の町奉行に差し出された(細川家同族天草長岡家系譜・熊本県立図書館蔵)。庄屋家子孫が建てた興秋の墓が本渡市御領の曹洞宗芳証寺の東墓地にあり、墓石の諡は長興寺殿慈徳宗専大居士、享年60。昭和に入ってから検証が試みられたが、結局真偽は明らかではない。
  8. ^ 「熊本縣史料・近世編第二p377」
  9. ^ 長兄細川忠隆(のちに和解)・次兄興秋は廃嫡のため、三男でありながら家督を継いだ。
  10. ^ 寛永二年加増四千五百石、家老職(肥後藩主要系図)
  11. ^ 寛永十一年加増三千五百石計壱万石(肥後藩主要系図)
  12. ^ 綿孝輯録(忠興・下 p305)に「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候」とある。
  13. ^ 万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
  14. ^ 「興秋は、実は忠興の密命で監物に助けられて九州天草に逃れ、子孫は庄屋になった」との異説がある。ただし天草は一度として細川領にはなっていない。
  15. ^ 「寛政重修諸家譜」
  16. ^ 幕府が公式に大坂浪人の仕官を解禁したのは元和九年閏八月廿八日である。

参考文献

[編集]
  • 『大阪城誌』
  • 『肥後国史』
  • 柏木輝久著・北川央監修『大坂の陣 豊臣方人物事典』(宮帯出版社、2016年)
  • 『大坂の役』旧参謀本部編纂を桑田忠親山岡荘八が監修・口語訳
  • 『三百藩家臣人名事典』第7巻・熊本県