本町橋の夜戦
本町橋の夜戦 | |
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戦争:大坂の陣・大坂冬の陣 | |
年月日:1614年(慶長19年)12月17日 | |
場所:摂津国 大坂城本町橋周辺 | |
結果:大坂方による夜襲は成功 | |
交戦勢力 | |
蜂須賀至鎮軍 | 豊臣軍 |
指導者・指揮官 | |
蜂須賀至鎮 ・中村重勝 † |
大野治房 ・塙直之 ・御宿政友 ・長岡是季[1](米田監物) |
戦力 | |
中村隊:200名余?+援軍:不明 | 120名余(一説に80名余) |
損害 | |
死傷者100名余 中村重勝らが戦死。 | 死傷者10名余 |
本町橋の夜戦(ほんまちばしのやせん)は、江戸幕府と豊臣家の間で起こった大坂の陣のうち、1614年(慶長19年)末に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つ。本町橋の夜襲戦または本町橋の夜討ちともいう[2]。
経過
[編集]11月29日、薄田兼相が守将を務める博労淵砦と大野治胤が守将を務める野田・福島が幕府方・蜂須賀至鎮や石川忠総らに次々と占領されたため、大野治長は船場、天満の砦を捨てて大坂城の守りを固めようとした。しかし、大野治房は治長の意見に反対し、困った治長は軍議と称して、治房を城内に呼び戻し直ちに拘束。その間に治長配下の者たちが砦に火を放ち、砦の守備兵を強制的に立ち退かせようとしたが、それを知らなかった守備兵たちは砦の放火を前に混乱に陥り、そこを幕府軍に攻め込まれ砦を占領された。砦の周辺に打ち捨てられた旗を拾われ治房が面目を失ったため、治房の配下に属していた塙直之や御宿政友らの間で夜襲の相談が行われた。当初、12月15日に夜襲決行を予定していたが、岡部則綱や石川外記が夜襲への参加を望んで配下の者を連れてきたことから参加人数が増えてしまい、少人数での決行を予定していた直之が則綱、外記を制止したことにより争いが起きた。論争は政友の調停によりなんとか収まったがこの日の夜襲は中止となった。大坂城内では和睦案に傾いていたため決行が急がれ夜襲の決行は17日に決まった。
戦闘
[編集]17日の午前2時頃、月が雲に隠れた朧夜であった。夜襲の人数は、治房、直之、是季、政友の組下など侍120名余でその中には、神子田理右衛門という勇士の姿もあり、ほかにも上条又八と田積市郎兵衛が配下の足軽を城内に残して単独で駆けつけた。このとき、直之は夜襲参加者に槍ではなく刀を持つように指示し、また、肩には相印の白布をつけた。夜襲を行うにあたり是季は池田忠雄の救援に備えて見張りをつけ、治房と政友は追尾の敵に備えて治房の足軽頭である三宅久太夫、安井少右衛門らが指揮する鉄砲隊100名余を橋上に置き、櫓には幸田弥右衛門らを守備につかせていた。
午前2時30分頃、塙配下、大野配下、長岡配下の順に出撃。功を焦り抜け駆けした二宮長範を先頭に1人また1人と敵に悟られぬよう腰を低くして橋を渡り至鎮の重臣・中村重勝の陣を目指して忍び寄った。本町橋のみが残り、それ以外の橋が大坂方の手によって焼かれていたが、中村隊は夜襲など考えておらず、兵士たちは眠りにつき、不寝番の兵も皆揃って餅などを食べながら雑談しあい、守将の重勝も普段はつねに具足を脱がない勇士として評判であったがこの日は具足を身につけておらず油断していた。大坂方による斬り込みが開始されると中村隊の者たちは不意をつかれ次々と討たれ、重勝も兜をつける暇もなく槍を持って飛び出し配下の兵を励ましながら応戦したが6名程の者に囲まれ討ち取られた。
短い時間であったがこの夜襲により、中村隊は、重勝と尾関重武をはじめ、30名余が戦死、50名余が負傷した(『武辺咄聞書』によれば中村右近のほかに武士214名、雑兵数十名が戦死、『当代記』によれば死傷者は100名に及ぶとされている)。いっぽうで大坂方は10名余が戦死した(『山口休庵咄』によれば大坂方の犠牲者は1名とされている)。大坂方は蜂須賀本営から援軍が来ると撤退し、中村隊の旗や指物を拾い上げ、堂々と城内に引き揚げていった。援軍に駆けつけた蜂須賀勢はこれを追ったが、橋上で治房配下の鉄砲隊が控えていたので撤退を余儀なくされた。
塙団右衛門の行動
[編集]直之ははじめ、橋上にて指揮をしていたが、引き揚げに際して単騎で乗り出し「夜討ノ大将 塙團右衞門」と書かれた札を陣中にばら撒いてその名を広く知らしめた(『大坂御陣覚書』)。
夜討二十三士
[編集]夜討にて功名を立てた23名の士(23名の名は書物によってまちまち)で、彼らは夜討後に大野治長、木村重成らに呼ばれ行動聴収を受け、豊臣秀頼から褒美を拝領した。二十三士に選ばれたが夜討にて討死した平田治部右衛門への褒美は是季が代理として受け取った(『大坂夜討事』)。
塙配下
大野配下
御宿配下
長岡配下
その他(所属不明或いは単独参加)
二十三士以外で功を挙げた者
[編集]塙配下
大野配下
長岡配下
その他(所属不明或いは単独参加)
参考文献
[編集]- 二木謙一『大坂の陣 証言・史上最大の攻防』〈中公新書〉1983年。
- 三池純正『大坂の陣 秀頼七将の実像』〈洋泉社歴史新書〉2015年。
- 柏木輝久『大坂の陣 豊臣方人物事典』北川央 監修、宮帯出版社、2016年。
脚注
[編集]- ^ 本姓は米田で官名は監物。細川忠興に仕え「長岡」姓と「興季」の諱を与えられるほどの武功者だったが1612年に忠興のもとを去り牢人。1614年に家臣を率いて大坂に入城し50騎を預かる。大坂落城後は落ち延び、ほどなく細川家に帰参して約5000石を領する家老となった。
- ^ 【大坂の陣400年】夜討ちの大将・塙団右衛門 異彩放つ存在感、ただ自らの「名」を天下に売らんがために(2014年12月14日付 産経WEST)