長岡好重
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 元和3年(1617年)9月15日 |
改名 | 三淵平六(平六郎) → 山名伊賀守 → 長岡平左衛門 → 長岡伊賀守 |
別名 | 平六郎、平左衛門(通称) |
戒名 | 円明院昇月宗林 |
官位 | 伊賀守 |
幕府 | 室町幕府、江戸幕府 |
主君 | 細川藤孝 |
藩 | 豊前国小倉藩 |
氏族 | 三淵氏 → 山名氏 → 長岡氏 |
父母 | 父:三淵晴員、母:山名民部少輔一雲斎 |
兄弟 | 宮川尼、三淵藤英、佐々木越中守室、玉甫紹琮、梅印元冲、細川藤孝、土御門久脩室 |
妻 | 細川栗(細川藤孝の娘)、細川輝経女 |
子 | 長岡重政 |
長岡 好重(ながおか よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。三淵好重や山名好重とも。
概要
[編集]初めは三淵平六(平六郎)を名乗っていたが、母が山名民部少輔一雲斎の娘であったことから山名氏を称した。元亀4年(1573年)7月に実兄・細川藤孝に従い青龍寺城に移ると長岡氏を称した。藤孝が天正8年(1580年)に丹後国を領するようになると1000石を賜った。慶長7年(1602年)に従五位下・伊賀守に叙任された。豊前国小倉藩宇佐郡竜王城に1000石を賜った。元和3年(1617年)9月15日に57歳で死去した[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 堀田正敦 編「巻第百七 清和源氏(義家流)」『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月30日。全国書誌番号:21329090 。