長井坂城
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長井坂城 (群馬県) | |
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城郭構造 | 囲郭式 |
築城主 | 不明 |
築城年 | 永禄年間(1558年 - 1670年)? |
主な城主 | 牧弥六郎,恩田越前守,猪俣能登守範直 |
廃城年 | 1590年(天正18年) |
遺構 | 土塁など |
指定文化財 | 群馬県指定史跡 |
位置 | 北緯36度35分8秒 東経139度3分56秒 / 北緯36.58556度 東経139.06556度座標: 北緯36度35分8秒 東経139度3分56秒 / 北緯36.58556度 東経139.06556度 |
長井坂城(ながいざかじょう)とは、群馬県渋川市赤城町棚下・利根郡昭和村川額に存在した戦国時代の城(山城)。
概要
[編集]築城者・築城年代は不明だが、『加沢記』に永禄3年(1560年)に長尾景虎が長井坂に陣を置いて沼田城を攻め、沼田顕泰を降伏させたとあることから、この時期の築城とも考えられる[1][2]。
越相同盟によって天正のはじめに北条氏の持城となったが、天正6年(1578年)に真田昌幸が沼田城を攻略したことで、北条氏と真田氏の前線となる[2]。
『加沢記』『吾妻記』によると、天正8年(1580年)真田昌幸は長井坂城を包囲し、長尾憲景の家臣の城将牧弥七郎・城番須田加賀守は降伏した[1][2]。昌幸は長井坂城に恩田越前守・下沼田豊前守を置いた[2]。
天正9年(1581年)に北条氏邦が長井坂城を包囲し、恩田氏らは城から逃亡したため、氏邦は猪俣能登守範直を置いた[2]。
その後も真田氏・北条氏の攻防が続いたが、天正18年(1590年)の小田原城の落城に伴い白井城が落城したことで、長井坂城も降り、その後廃城となった[1][2][3]。
構造
[編集]西側を流れる利根川の断崖上に位置し、北側は永井の沢を防壁としている[1][2]。南北260メートル、東西180メートルの囲郭式[2]。本丸の規模は南北80メートル、東西40メートルで、東に二の丸、さらに東に二の丸を囲む形で三の丸が作られている[1]。
周辺
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e 群馬県教育委員会 1989, p. 25.
- ^ a b c d e f g h 赤城村誌編纂委員会 1989, p. 1076.
- ^ 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会 1959, pp. 837–838.
- ^ “旧赤城村地区の指定文化財”. www.city.shibukawa.lg.jp. 2024年8月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 赤城村誌編纂委員会『赤城村誌』赤城村役場内赤城村誌編纂委員会、1989年3月31日。
- 群馬県教育委員会『群馬県の中世城館跡』群馬県前橋市大手町一丁目1番1号、1989年3月31日(原著1989年3月31日)。doi:10.24484/sitereports.101986。 NCID BN06891113 。
- 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会『群馬県勢多郡敷島村誌』群馬県勢多郡赤城村役場内群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会、1959年12月15日。