鈴木昌司
鈴木 昌司(すずき しょうじ、1841年11月1日(天保12年9月18日[1][2])- 1895年(明治28年)4月30日[1][2][3])は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県会議長。幼名・保逸郎(ほいちろう)[1][2]、号・竹外[1][4]。
経歴
[編集]越後国頸城郡、のちの新潟県[3]中頸城郡代石村[1](大出口村[5]、吉川村代石[4]、吉川町代石[2]を経て現上越市吉川区代石)で、庄屋・鈴木三郎右衛門の長男として生まれる[1]。同村の高島道隆に師事し漢学を修めた[2][4]。
父の死去により家督を相続し戸長、副大区長を務めた[2][4]。地租改正反対運動に加わった[1]。1877年(明治10年)八木原繁祉らと高田町(現上越市)士族らを中心に新潟県初の民権結社・明十社を結成した[1][4]。1879年(明治12年)府県会規則による新潟県会が開設され、初の県会議員に当選[2][3][5][4]。国会開設運動に尽力[4]。頸城自由党の結成に参画[1][2][4]。1883年(明治16年)高田事件に連座し5カ月間、高田監獄に収監された[1][2][4]。
1887年(明治20年)井上馨外務大臣の条約改正案への反対運動に加わり[2][4]、同年12月26日保安条例により570余名の一人として皇居外以外に追放され[2][4]、横浜に潜伏して活動を続けた[2]。1888年(明治21年)県会議長に就任[1][2][3][5][4]。大隈重信外相の条約改正案への反対運動にも加わった[2][4]。
1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(新潟県第8区)で初当選し[1][2][4][6]、次の第2回総選挙でも再選され[1][4][6]、衆議院議員に連続2期在任した[3][5][4]。
長年の政治活動で私財を全て消費し[2]、1895年4月、東京で死去した[2][4]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(新潟県第8区、1890年7月、自由倶楽部)当選[6]
- 第2回衆議院議員総選挙(新潟県第8区、1892年2月、弥生倶楽部)当選[6]
- 第3回衆議院議員総選挙(新潟県第8区、1894年3月、自由党)次点落選[6]
- 第4回衆議院議員総選挙(新潟県第8区、1894年9月、自由党)次点落選[7]
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 牧野利平編『越佐人物誌 上巻』野島出版、1972年。
- 『新潟県大百科事典 別巻』新潟日報事業社、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。