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金沢宿 (甲州街道)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金沢宿 (甲州街道)の位置(日本内)
金沢宿 (甲州街道)
金沢宿 (甲州街道)

金沢宿(かなざわじゅく)は、甲州街道江戸から数えて四十三番目の宿場。現在の長野県茅野市金沢に位置する。江戸から48里35町、上諏訪から3里14町に位置する。

概要

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権現の森(茅野市指定文化財)・摩利支天

甲州街道が整備された際に、上青柳・下青柳両村の住民が権現神社[1]の南と御社宮司社の脇に桝形を設け、その間に宿場を造営したとされる。正保4年(1647年)の「信濃国絵図高辻」では青柳宿[2]と称し、現在よりも上諏訪宿寄りにあったが、宮川氾濫や火災に遭遇したため、諏訪藩2代藩主諏訪忠恒慶安4年(1651年)に宿場を金沢村に移転させた[3]。村役人の記録も「慶安四年、青柳宿ヲ金沢宿ト相改メ候」と見え、寛文5年(1665年)の宗門帳には金沢村とある。

金沢宿の宿場は長さ8町、道幅5間で、両側に桝形があり、上町、中町、下町に区分されていた。道の中央と家並みの裏に3尺の用水汐が流れていた。『甲州道中宿村大概帳』によれば総家数は161軒、本陣は1軒、脇本陣なし、問屋は2軒、旅籠は17軒であった。本陣は当初、小松家[4]が務めたが、延宝6年(1678年)には白川家に代わっている。現在は本陣跡が消防詰め所となっている。問屋役は15日交代で人馬を継ぎたてた。

当宿場と上諏訪宿間の宿である茅野村(宮川村茅野。現在の茅野市宮川茅野)は、南へ杖突街道伊那部宿に通じ、高遠藩主や飯田藩主が参勤交代に利用した。また北へは大門街道上田に通じ、諏訪盆地の交通の要衝となった。

史跡

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今も江戸時代の金沢宿の面影を残す史跡。

  • 萬霊等・石碑(金沢宿入口)
  • 旧甲州街道金沢宿旅籠松坂屋
  • 旧甲州街道金沢宿刑場跡
  • 旧甲州街道金沢宿茶屋近江屋
  • 旧甲州街道金沢宿本陣小松家跡
  • 旧甲州街道金沢宿馬方小林家
  • 権現の森(金山権現[5]・青柳宿跡)

関連項目

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注釈 

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  1. ^ 権現の森(金山権現と青柳宿跡)1983年に茅野市の指定文化財(史跡)となった。
  2. ^ 北国西街道青柳宿とは別である。
  3. ^ 小林勝郎『義民小松三郎左衛門とその子孫 甲州街道金沢宿本陣問屋ー長野県諏訪市』中央企画出版、1986年小松家年譜参照
  4. ^ 四代目当主小松三郎左衛門の代で断絶された。
  5. ^ 武田信玄の開いた金鶏金山(日本の鉱山の一覧参照)で働いていた金山衆(日本全国の金山を掘るプロの集団(コトバンク・世界大百科事典内の金山衆の言及又は黒川金山参照)が、金山に祀られていた金山権現を移築したものと伝えられる。

参考文献

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  • 「信州の文化シリーズ 街道と宿場」信濃毎日新聞社 1980年
  • 「街道物語16 甲州街道」三昧社 1982年
  • 『信濃金沢名所史跡マップ』2015年 金沢地区コミュニティ運営協議会 / 金沢の未来を考える研究会著

外部リンク

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