金森次郎
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金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月31日 - 1983年(昭和58年)8月14日)は日本の実業家。東京光学機械元社長[1]。山之内製薬(現:アステラス製薬)元顧問[2]。宗教家金森通倫の二男。
略歴
[編集]- 1889年 - 京都市に熊本県人の牧師金森通倫の二男として生まれる
- 1912年 - 第一高等学校卒業
- 1915年 - 東京帝国大学工学部機械科卒業、横浜船渠入社[3]
- 1929年 - 横浜船渠の技師として秩父丸建造のためデンマーク視察[4]
- 1930年 - 横浜船渠の技師長として秩父丸で米国まで試乗[5]。
- 1939年 - 東京光学機械(創立1932年)常務取締役兼技師長[6]
- 1944年 - 岡谷光学機械社長、会長、新東合金取締役、東京火災専務、技師長、社長、会長を経て[要出典]
- 1945年 - 板橋工業倶楽部設立、理事長就任(のち板橋産業協議会、板橋産業連合会と改称し1952年まで初代会長を務める)[7]
- 1948年 - 山之内製薬取締役[2]。東京光学機械社長、板橋産業協議会理事長、工学精機工業協会理事[3]
- 1953年 - 日平産業常務[要出典]
- 墓所は多磨霊園。
その他
[編集]家族
[編集]- 父・金森通倫
- 妻・岸子(横浜電気社長上野吉二郎の長女、横浜山手高女卒)[8][3][9]。岸子の姉妹の夫に大島直治、早川種三ら、弟の岳父に倉知鉄吉がいる。
- 長男・昭(府立九中卒)[8][3]
- 長女・初枝(恵泉女学園卒)[8][3]
- 次女・千寿子[3]
- 兄弟・金森太郎ほか
- 甥・石破二朗。その子に石破茂
脚注
[編集]- ^ 『篠原三千郎氏を偲ぶ』東京急行電鉄、1954、「東京光学機械と篠原氏」 元東光社長 金森次郎 / p58
- ^ a b 人事興信所. “人事興信録 第25版 上”. dl.ndl.go.jp. p. か - 162. 2024年9月29日閲覧。
- ^ a b c d e f 金森次郎『人事興信録. 第15版 上』1948年
- ^ 秩父丸の機関製造 デンマークに出張金森次郎氏来桑す『日米』1929年1月27日
- ^ 同港に船が三隻 金森技師の喜び『日米』1930年4月21日
- ^ 金森次郎『人事興信録. 第12版(昭和14年) 上』
- ^ 沿革一般社団法人板橋産業連合会
- ^ a b c 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)カ九四頁
- ^ 上野吉二郎邸 表入口横浜開港150周年記念事業「みんなでつくる横濱写真アルバム-市民が記録した150年-」横浜写真アーカイブ協議会