野口英雄
Hideo NOGUCHI | |
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基本情報 | |
名前 | 野口 英雄 |
没年月日 | 1944年7月14日(80歳) |
身長 | 172 cm (5 ft 8 in) |
体重 | 68 kg (150 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県 |
経歴 |
野口 英雄(のぐち ひでお、1944年7月14日 - )は、千葉県出身のプロゴルファー。
来歴
[編集]1971年の第1回美津濃トーナメントで前田新作・草壁政治と並んでの3位タイ[1]、1974年の第4回では内田繁・榎本七郎に次ぐと同時に鈴木規夫・草壁・松井功を抑え、金本章生と並んでの3位タイ[2]に入る。
1974年の中日クラウンズでは村上隆・尾崎将司・青木功・島田幸作、グラハム・マーシュ( オーストラリア)に次ぎ、宮本康弘・金井清一・新井規矩雄・山本善隆・呂良煥( 中華民国)と並んでの6位タイ[3]に入った。
1975年のペプシウィルソントーナメントでは初日を豊田明夫・草壁、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、関水利晃・内田・吉川一雄・沼澤聖一・村上・尾崎将・呂良・中村寅吉と並んでの4位タイ[4]でスタートし、2日目には中村・尾崎将・ジョーンズと並んでの2位タイ[5]、3日目には鈴木と並んでの4アンダーで2位タイ[6]に続いた。
1975年の中部オープンでは初日を鈴村照男から2打差2位タイ[7]でスタートし、2日目には68をマークして首位に立ち[8]、最終日には69をマークした大場勲に並ばれたが、プレーオフで下してツアー初優勝[9] [10]を果たす。
1976年のアジアサーキット・シンガポールオープンでは内田袈裟彦、ベン・アルダ( フィリピン)、マーシュに次ぐ6位[11] [12]に入った。
帰国後のフジサンケイクラシックでは初日を秋富由利夫と共に69をマークして6位タイ[13]でスタートし、2日目も69で回り首位日吉定雄に1打差の2位[14]に浮上するが、3日目には岩下吉久と並んでの4位タイ[15]に後退し、最終日には村上と並んでの6位タイ[16]に終わった。
日本プロマッチプレーでは予選最終ラウンドまで進み、通算3アンダーで並んだ内田とプレーオフになったが、内田に敗れている[17]。
1978年の美津濃トーナメントでは草壁と並んでの3位タイ[18]、同年の中部オープンでは井上幸一・鈴村久・石井秀夫・内田・石井裕士に次ぐと同時に大場・豊田を抑えての9位に入り[19]、1985年の中部オープン[20]を最後にレギュラーツアーから引退。
主な優勝
[編集]- 1975年 - 中部オープン
脚注
[編集]- ^ 第1回 1971年(昭和46年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
- ^ 第4回 1974年(昭和49年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
- ^ 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
- ^ 朝日新聞縮刷版p686 昭和50年5月23日朝刊16面「日吉トップ ペプシ・ウイルソン・ゴルフ第一日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p723 昭和50年5月24日朝刊17面「橘田、一気にトップ ペプシ・ウイルソン・ゴルフ(第二日)」
- ^ 朝日新聞縮刷版p752 昭和50年5月25日朝刊14面「橘田弟、首位を保つ ペプシ・ウイルソン・ゴルフ(第三日)」
- ^ 朝日新聞縮刷版p527 昭和50年7月17日朝刊17面
- ^ 朝日新聞縮刷版p560 昭和50年7月18日朝刊16面
- ^ 朝日新聞縮刷版p627 昭和50年7月20日朝刊15面
- ^ 野口 英雄選手 ツアー通算データ - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
- ^ 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉜】1974年以降、アジア・サーキットは日本選手の修行の場に
- ^ 日刊スポーツ1976年3月15日「内田逃げ切り初優勝」
- ^ 朝日新聞縮刷版p386 昭和51年5月14日朝刊16面「日吉が首位 ミヤアエ2位 フジサンケイ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p423 昭和51年5月15日朝刊17面「日吉が首位守る フジサンケイ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p454 昭和51年5月16日朝刊16面「トップに青木功ら三人 フジサンケイ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p485 昭和51年5月17日朝刊19面「鈴木規、呂をかわす プレーオフ フジサンケイ・ゴルフ」
- ^ 第2回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1976年)
- ^ 第8回 1978年(昭和53年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
- ^ 朝日新聞縮刷版p538 昭和53年7月16日朝刊18面「井上が初栄冠 中部オープン」
- ^ 野口 英雄選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site