酒井正三郎
人物情報 | |
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生誕 |
1901年1月1日 日本岐阜県岐阜市 |
死没 | 1981年4月15日 (80歳没) |
出身校 | 東京商科大学 |
学問 | |
研究分野 | 経済学 |
研究機関 | 名古屋大学 |
学位 | 経済学博士 |
酒井 正三郎/正兵衛[1](さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1901年1月1日 - 1981年4月15日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)校長や、初代名古屋大学経済学部長、経済社会学会会長、日本学術会議会員等を歴任した。
経歴
[編集]1901年、岐阜県岐阜市生まれ。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、1924年に同大本科を卒業。大学では左右田喜一郎に師事した[2]。1942年に学位論文『国民経済ノ構造変動ノ本質並ニ原因ニ関スル研究』を提出して経済学博士号を取得[3]。
1922年より指導教官左右田が主催した横浜社会問題研究所主任研究員。1925年より名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)講師。1928年に教授昇進。商業学校では、同僚の赤松要や宮田喜代蔵とともに産業調査・分析にあたった。1939年、赤松の後任として第2代産業調査室(現名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済政策研究センター)所長に就任。1949年、第5代名古屋高等商業学校校長兼初代名古屋大学法経学部長となった。1950年より名古屋大学経済学部長を務めた。また同年に日本学術会議会員に選出された[2][4]。1956年から1981年まで中部都市学会初代会長[5]。1964年に名古屋大学を定年退官し、名誉教授となった。後任には教え子の建元正弘(大阪大学名誉教授)や碓氷尊(元慶応義塾大学教授)を考えていたが叶わず、友人中山伊知郎門下の藤井隆が後任教授となった。退官後は、南山大学教授や愛知学院大学教授を務めた。
学界では、1974年から1981年まで経済社会学会会長。日本国有鉄道観察使、地域問題研究所代表なども務めた。1981年に死去。弔辞は酒井が学位論文審査を行った大来佐武郎(元外務大臣)が読んだ[2][6][7][8]。
受賞・栄典
[編集]研究内容・業績
[編集]著書
[編集]- 『保険経営学 : 特に海上保険に関して』森山書店 1936
- 『経営技術学と経営経済学』森山書店 1937
- 『保険経済学』平野書店 1939
- 『国民経済構造変動論』日本評論社 1942
- 『新経済理論の確立』(共著)東洋経済新報社 1943
- 『経済的経営の基礎構造』敞文館 1943
- 『企業の決戰体制は如何なるべきや』三井本社調査部 1944
- 『アメリカ経済の構造』水谷書房 1946
- 『經營者社會の理論と構造』巌松堂書店 1948
- 『国民の経済構造の基礎理論』東洋経済新報社 1949
- 『經濟構造理論への途』森山書店 1952
- 『経済体制と人間類型』岩波書店 1953
- 『経済構造変動の理論』森山書店 1956
- 『日本経済の成長と循環』経済新報社 1960
- 『社会科学一般理論』同文館出版 1962
- 『成長理論と構造理論』ダイヤモンド社 1963
- 『住宅建設計画の方法論的研究』(共著)日本住宅公団建築部調査研究課 1964
- 『私の学問遍歴とその道標』経済科学酒井正兵衛教授退官記念号抜刷 1964
- 『経営学方法論』森山書店 1966
- 『愛知用水と地域開発』(編)東洋経済新聞社 1967
- 『現代大都市論 1 』同文館出版 1973
- 『現代大都市論 2 』同文館出版 1973
- 『巨視的社会理論の構築』同文館出版 1981
- 『新名古屋市史(仮称)の基本的構想』出版地名古屋 刊年不明
脚注
[編集]- ^ 家督相続により名を「正兵衛」と改めたため、正三郎は筆名。
- ^ a b c 「酒井正兵衛(正三郎)先生を偲ぶ 2012年12月26日佐藤治」 望洋会
- ^ 東京商科大学 , 経済学博士 , [報告番号不明] , 1942-09-16
- ^ 「酒井 正兵衛」 20世紀日本人名事典
- ^ 中部都市学会の歴史と現状 中部都市学会
- ^ 「⑪名高商栴檀(センタン)と樟(クスノキ)」 ちょっと名大史 名古屋大学大学文書資料室
- ^ 「中部都市学会の歴史と現状」 中部都市学会
- ^ 歴代会長・顧問・名誉会員 経済社会学会
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