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都甲徠

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都甲 徠(とごう きたる、1899年明治32年)9月3日[1][2] - 1991年平成3年)2月17日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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大分県出身[1][2][3]。農業・都甲喜佐久の三男として生まれる[1]。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業[1][2][4]。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第64連隊付となる[1][4]。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業した[1][2][3]

1932年(昭和7年)12月、歩兵第37連隊中隊長に就任[1]。1933年(昭和8年)12月、参謀本部付勤務(支那課)となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、北京・太原・長沙駐在)、中国駐在を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級[1]。1937年(昭和12年)1月、参謀本部員(支那課)に就任し、1938年(昭和13年)3月、中支那派遣軍司令部付(上海特務部)に発令され日中戦争に出征[1]。1938年(昭和13年)7月、歩兵中佐に昇進し、1939年(昭和14年)3月、参謀本部員(支那課)に転じた[1]

1941年(昭和16年)3月、参謀本部支那課長に就任し、同年8月、陸軍大佐に進んだ[1][3]。1942年(昭和17年)4月、支那派遣軍参謀(第2課長)に発令され中国戦線に出征[1][2][3]。1944年(昭和19年)12月、支那派遣軍司令部付となり、1945年(昭和20年)6月、陸軍少将に進み、同月、陸軍歩兵学校付となり帰国[1][2][3]。同年7月、陸軍省調査部長に就任し終戦を迎えた[1][2][3]。同年9月、予備役に編入された[1][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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外国勲章佩用允許

親族

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  • 二男 都甲岳洋(外交官)[1]
  • 弟 都甲誠一(陸軍中佐)・都甲積(陸軍少佐)[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、107頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』494頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』448頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』446、448頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」163頁。
  6. ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。