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趙元任

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趙 元任
人物情報
生誕 (1892-11-03) 1892年11月3日(光緒18年9月14日)
清の旗 天津
死没 1982年2月25日(1982-02-25)(89歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ケンブリッジ
出身校 コーネル大学ハーバード大学
学問
研究分野 言語学
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趙 元任(ちょう げんじん、ユエン・レン・チャオ、Yuen Ren CHAO、1892年11月3日 - 1982年2月25日)は中華民国アメリカ合衆国言語学者

経歴

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1892年11月3日(光緒18年9月14日)天津で誕生。(あざな)は宣重。趙家元来の出身地は、南京と天津の中間地点の常州で「母方言」地域。但し、祖父及び父の任地の関係から転居が多く、就学[満七才]以前に、北京語・保定方言・常熟方言を習得していた。

1895年(3歳)で母親から漢字を習う。また後に祖父より『大学』の素読を習う。1898年(6歳)、家塾で就学。『大学』は習得済み、また『中庸』は難解ゆえ、『論語』『孟子』を学習。夕食後、母から詩及び歌を、父から笛を習った。

1904年(12歳):両親の死去に伴い蘇州へ転居。蘇州方言を習得。1906年(14歳)、常州へ戻り渓山小学へ入学。1907年(15歳)、南京の江南高等学堂へ入学。米国人教師David J. Carverと出会い啓蒙を受ける。但し、Carverの英語は南部訛が強く、後年アメリカへ留学した際、「英語が違う」というのがアメリカの第一印象であった。

1910年(18歳):清華学堂の奨学金を得て、米国コーネル大学へ留学。合格者72名中2位の成績だった。当初は電気工学を目指す予定であったが、数学を専攻した。ドイツ語・フランス語を習得する一方で、一般音声学の講義(Herman Davidson)でIPA(国際音声字母)に接し音声学に興味を持つ。卒業時の成績は、コーネル大学開校以来のものであった。1914年(22歳)コーネル大学大学院(哲学専攻)へ進学。1915年(23歳)、ジョージ・マーサ・ダービィ哲学奨学金を得て、ヘンリー・M・シェーファー英語版を慕ってハーバード大学大学院へ移籍した。言語学のほか、サンスクリット語チャールズ・ロックウェル・ランマン英語版に学んでいる。学院論文はContinuity: A Study of Methodology (1918年学位取得)

  • 1919年(27歳):コーネル大学で物理学講師に就任
  • 1920年(28歳):北京・清華学校からの招聘を受け帰国
  • 1920年 - 1921年:バートランド・ラッセルの中国公演旅行の通訳を務める。
    • 1920年10月26日、湖南省長沙で通訳した際、趙の湖南方言があまりに流暢なので、「湖南の何県出身ですか?」と質問された[1]
  • 1921年(29歳):外科医の楊歩偉と結婚。楊は東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業後、中国初の近代女医として北京で開業していた。二人は一日ごとに話す方言を変えていた。その時期、ベルンハルド・カールグレンの“Études sur la phonologie chinoise”(『中国音韻学研究』)を読み、中国語の史的研究に興味を持ち始める。また、言語学を専念する事をきめたのも、この時期である。同1921年秋、ハーバード大学の論理学、及び中国語講師に任ぜられる

1923年(31歳)、欧州を遊学。アンリ・マスペロポール・ペリオアントワーヌ・メイエなど著名な学者の知遇をえる。なかでもダニエル・ジョーンズから指導を受け、また国際音声学会の主要メンバーの一人になる。

1924年(32歳):清華学校の大学制移行に伴い、王国維らと共に「導師」として招聘される。この時期、国語統一準備委員会のメンバーになり、林語堂銭玄同などと「数人会」を結成。「数人会」の名前は『切韻』(陸法言、601年)の「序」に出てくる「我輩数人,定則定矣」から採られたもので、この会は、国語運動の理論的・科学的な方向付けを行った。具体的には『国語常用字彙』(1932年)の編集・出版として結実した。また、国語ローマ字國語羅馬字)制定の主要メンバーとしても活躍した[2]。この時期、各地に方言調査に赴く。1927年10月から12月まで揚子江下流の呉語地域(その結果が『現代呉語的研究』)、1928年から1929年まで広東・広西両省及び汕頭・潮州を調査した。

1932年 - 1933年(41歳)、Chinese Educational Missionの長として米国へ。レナード・ブルームフィールドバーナード・ブロックなどの他に、エール大学においてエドワード・サピアと会っている。その際サピアは、常州方言の音声体系と高頻度語句について質問。その1時間後には趙と常州方言で話していた由。

1934年(42歳):安徽方言調査。“Non-uniqueness of phonemic solutions of phonetic systems”執筆・出版。

1935年(43歳)春、江西方言調査。秋、湖南方言調査。1936年(44歳)湖北方言を調査。

1938年(46歳):ハワイ大学東洋学研究所へ移籍。1939年7月14日(47歳)ハワイからアメリカ本土へ移動。同時期、李方桂は中国・昆明(趙一家が戦火を逃れていた都市)に向かう船に乗った。

1981年3月(88歳)に妻・楊歩偉が逝去。1982年2月25日(89歳):マサチューセッツ州ケンブリッジにて逝去[3]

主要著書

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  • 現代呉語的研究. 清華学校研究院. (1928) 
  • 広西猺歌記音. 中央研究院歴史語言研究所単刊. 甲種之一. (1930) 
  • “ə sistim əv "toun letəz" [A system of "tone-letters"]”. Le Maître Phonétique 30: 24–27. (1930). JSTOR 44704341. (基準線による声調の表記を提唱した論文。チベット語IPA表記も試みられている。)
  • “The non-uniqueness of phonemic solutions of phonetic systems”. 中央研究院歴史語言研究所集刊 4 (4): 363-397. (1934). (音韻分析が複数ありえることを示した有名な論文)
  • 鍾祥方言記. 中央研究院歴史語言研究所単刊. 甲種之十五. 商務印書館. (1939) 
  • “Distinctions within Ancient Chinese”. Harvard Journal of Asiatic Studies 5: 203-233. (1941). JSTOR 2717913. 音韻論を中国語中古音に適用したことで有名な論文。本来の題は「Distinctive and Non-Distinctive Distinctions in Ancient Chinese」だったが、雑誌に載せるときに削られた。)
  • Concise Dictionary of Spoken Chinese. Harvard University Press. (1947) (楊聯陞と共著)
  • Cantonese Primer. Harvard University Press. (1947) 
  • Mandarin Primer. Harvard University Press. (1948) 
  • 湖北方言調査報告. 商務印書館. (1948) (2冊)
  • 語言問題. 台湾商務印書館. (1959) 
  • A Grammar of Spoken Chinese. University of California Press. (1968) 
  • Language and Symbolic Systems. Cambridge University Press. (1968) 
  • Life with Chaos. Ithaca: Spoken Language Services. (1975) (自伝、2冊)
  • Aspects of Chinese Sociolinguistics. Stanford University Press. (1976) 
  • 橋本萬太郎 訳『言語学入門:言語と記号システム』岩波書店、1980年。 【Language and Symbolic Systems の日本語訳】

翻訳

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参考文献

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  1. ^ その質問をしたのは若い頃の毛沢東だとの説もある。但し、趙自身の“My Linguistic Autobiography”(Aspects of Chinese Sociolinguistics 所収)には、本編中唯一具体的な日付を挙げながら、毛沢東の名前は出てこない)
  2. ^ 参考:施氏食獅史
  3. ^ ユエン・レン・チャオ 著、橋本萬太郎 訳『言語学入門:言語と記号システム』岩波書店、1980年、322-335頁。 Chao, Yuen Ren (1976). Aspect of Chinese Socio-Linguistics. Stanford University Press. pp. 1-20 

外部リンク

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