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赤松氏置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
赤松氏置
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正2年(1574年
死没 慶長17年10月9日1612年11月1日
改名 義利(初名)、氏置
別名 八兵衛(通称)、石野氏置
墓所 千葉県君津市新御堂の最勝福寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康
氏族 石野氏
父母 赤松氏満有馬則頼
兄弟 氏置氏次正直
内藤家長
氏照氏信
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赤松 氏置(あかまつ うじおき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将旗本。名門守護大名赤松氏の庶流七条氏の後裔。上総国下湯江陣屋を領した。対外的には石野氏を称した。

生涯

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幼少の頃は外祖父・有馬則頼に養育されていた[1]元服後しばらくはかつての赤松氏嫡流に倣って義利と名乗った。

文禄元年(1592年)7月、則頼の紹介により名護屋城在陣中の徳川家康と対面し[1]、家康に召されて近習として仕え始めた[1]。文禄4年(1595年)、上総国天羽郡周淮郡内に2150石余を得た[1]関ヶ原の戦いでは斥候の役を務め、この功績によって伊豆国修善寺に1000石を賜った[1]。慶長6年(1601年)、御使番となる[1]

慶長17年(1612年)、駿府において死去。享年39[1]。跡を嫡男・氏照が相続した。二男・氏信徳川頼房水戸藩)に仕えた[1]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 寛政重修諸家譜』巻第四百六十七

出典

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  • 寛政重修諸家譜』巻第四百六十七
  • 日本文学研究資料刊行会編『戦記文学 保元物語・平治物語・太平記』有精堂、1974年
  • 関山和夫『庶民芸能と仏教』大蔵出版、2001年
  • 加美宏『太平記享受史論考』桜楓社、1985年