赤松範資
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正平6年/観応2年4月8日(1351年5月4日) |
戒名 | 霊光院殿模叟世範 |
官位 | 従五位下[1]、美作権守[1]、信濃守[1]、左衛門尉 |
幕府 | 室町幕府摂津[1]・播磨守護 |
主君 | 後醍醐天皇→足利尊氏 |
氏族 | 赤松氏 |
父母 | 父:赤松則村(円心)[1] |
兄弟 | 範資、貞範[1]、則祐[1]、氏範[1]、氏康 |
子 | 光範[1]、朝範、直頼、師頼、師範、則弘、則春[1]、範実 |
赤松 範資(あかまつ のりすけ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。摂津国・播磨国守護。赤松氏の第5代当主。
略歴
[編集]初め弟・貞範と共に摂津長洲荘[3]の代官として派遣されたが、元弘3年(1333年)、父が鎌倉幕府討幕のために挙兵した際、父に従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより室町幕府成立後、尊氏から摂津守護に任じられた。
正平5年/観応元年(1350年)、父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では尊氏・師直側に味方して直義軍と戦い、打出浜の戦いに参戦している。しかし翌正平6年/観応2年(1351年)、京都堀川七条の自邸にて急死。
摂津は嫡男・光範が、家督と播磨は弟・則祐が継いだ。他の子らはそれぞれの所領から改姓して一門衆になったとされる。
子孫
[編集]光範の系統は七条氏として存続、この家系は戦国時代の明応5年(1496年)に赤松義村が惣領家に復帰し、以後関ヶ原の戦いの赤松則英、斎村政広まで4代続く事になる。また、傍流の赤松氏満の家系が江戸時代に大身旗本として幕末まで存続した。
円心の弟という説もある[要出典]。また、義村の代まで則祐の家系と交互に家督を相続したという説もある[要出典]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 高坂好 著、日本歴史学会 編『赤松円心・満祐』 155巻、吉川弘文館〈人物叢書〉、1970年3月。 NCID BN02378981。OCLC 29341608。全国書誌番号:73006025。
- 濱田浩一郎『播磨赤松一族』新人物往来社、2009年1月。ISBN 9784404035622。 NCID BA8896092X。OCLC 675723586。全国書誌番号:21558705。