谷田絹子
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基本情報 | |||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||
生年月日 | 1939年9月19日 | ||||||||||||||||||||
没年月日 | 2020年12月4日(81歳没) | ||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Kinuko Tanida | ||||||||||||||||||||
身長 | 170cm | ||||||||||||||||||||
体重 | 65kg | ||||||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||||||
ポジション | レフト | ||||||||||||||||||||
利き手 | 右 | ||||||||||||||||||||
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谷田 絹子(たにだ きぬこ、現姓:井戸川、1939年9月19日 - 2020年12月4日)は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。東洋の魔女 (Oriental Witches) [1]の主力メンバー。
来歴
[編集]大阪府出身。四天王寺高校時代に、中野尚子、藤森節子とともに高校生三羽烏と呼ばれた名選手。
一時怪我のため調子を落としたが猛練習で克服し、東洋の魔女のレギュラーとなった。キレのよいスパイクが特徴である。のちに、当時の猛練習、それを指導した監督・大松博文のことを回想している[2]。
1964年、東京オリンピックのバレーボール競技において、エーススパイカーとして金メダル獲得に大いに貢献した[3]。
第20回国民体育大会バレーボール競技出場のためのチーム「富士クラブ(フジクラブ)」のオーナーに淡島千景が就き、その後は淡島の事務所の職員となって東京で同居もする。谷田の母が死去した30歳の時、地元に帰り家庭を持って子宝にも恵まれる[4][5]。
2018年時点でもバレーコーチとしても活動していたが、2020年12月4日に脳出血の為死去したことが報じられた[6]。81歳没。
球歴
[編集]所属チーム
[編集]参考文献
[編集]- VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌)1964年10月号 45ページ
脚注
[編集]- ^ Remembering the Oriental Witches: Sports, Gender and Shōwa Nostalgia in the NHK Narratives of the Tokyo Olympics / Oxford University Press
- ^ 1964東京五輪“東洋の魔女”率いた鬼の大松 当時のエース・井戸川さんが明かす苛烈秘話 | 東京スポーツ
- ^ 【話の肖像画】東洋の魔女、東京五輪女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(1)「試合に勝つ」だけ考えて - 産経ニュース
- ^ 爆報!THE フライデー 【芸能人の骨髄移植&あの人は今大追跡SP】 - gooテレビ番組(関東版) 2018年8月10日放送
- ^ 爆報!THE フライデー 【芸能人の骨髄移植&あの人は今大追跡SP】 - gooテレビ番組(関西版) 2018年8月10日放送
- ^ 「東洋の魔女」エース・井戸川絹子さん死去 81歳 - 一般スポーツ,テニス,バスケット,ラグビー,アメフット,格闘技,陸上:朝日新聞デジタル
外部リンク
[編集]- 谷田絹子 - 国際オリンピック委員会
- 谷田絹子 - オリンピックチャンネル
- 谷田絹子 - Olympedia
- 谷田絹子 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- 『ワン・ツウ・アタック!』の世界 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)[リンク切れ]