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角田柳作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
角田 柳作
つのだ りゅうさく
人物情報
生誕 (1877-01-28) 1877年1月28日
日本の旗 日本 群馬県勢多郡津久田村
死没 (1964-11-29) 1964年11月29日(87歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ハワイ州ホノルル
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京専門学校
学問
研究機関 コロンビア大学
主な指導学生 ドナルド・キーンウィリアム・セオドア・ド・バリー
称号 コロンビア大学名誉文学博士
影響を受けた人物 アーサー・ロイドジョン・デューイ
影響を与えた人物 ジョージ・サンソムエドガートン・ハーバート・ノーマンジョン・エンブリー
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角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年明治10年)1月28日 - 1964年昭和39年)11月29日)は、群馬県出身の日本文化の研究者・教育者。コロンビア大学に日本文化研究所を設立し、日本研究コレクションのキュレーターを務めた。日本文学研究者ドナルド・キーンの師として知られる。

経歴

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1877年(明治10年)1月28日、群馬県勢多郡津久田村(現・群馬県渋川市赤城町津久田)の農家に、父庄作、母ぎんの次男として生まれる[1][2]。5歳の時父をコレラで失い、祖父金造と母ぎんに育てられる[3]1890年(明治23年)4月群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、1893年(明治26年)10月退学[4]東京専門学校(現・早稲田大学)文学科に入学し、坪内逍遙アーサー・ロイドに教えを受ける[5]。東京専門学校を1896年(明治29年)7月29日卒業[6]1897年(明治30年)1月、徳富蘇峰国民新聞社に入社し、雑誌"Far East"の校正係となる[7]。その後菅原伝日向輝武らを擁する人民新聞社に転じるが、1899年(明治32年)4月に退社。同年8月から沢柳政太郎の紹介で京都真言宗聯合高等中学林(現・種智院大学)に赴任し1902年(明治35年)8月まで在職[8]1900年(明治33年)からは文中園(現・京都女子大学)の教授も務めていた[9]1903年(明治36年)4月4日、福島県立福島中学校(現・福島県立福島高校)に赴任し英語と倫理学を担当する[10]1908年(明治41年)9月の皇太子の授業台覧が中止となり、奉送迎に参加せず早退した生徒への処置に異存を唱えたことを原因として、10月から宮城県立仙台第一中学校(現・宮城県立仙台第一高等学校)に転じるが、1909年(明治42年)4月までの短い間の在職に終わる[11]

同年5月、本願寺別院今村恵猛の招きに応じ、単身でハワイに渡り、本願寺が1907年(明治40年)に設立した布哇中学校の校長となる[12]1911年(明治44年)4月に女子部が布哇高等女学校として独立し、角田は校長を兼務する[13]1912年(明治45年)5月、日本に結核の治療のため帰国し、8月に辞職。1913年大正2年)1月に再度ハワイに渡り、2月に『布哇日日新聞』の記者となるが11月に退社[14]1914年(大正3年)1月"The Essence of Japanese Buddism"『英文真宗大意』を刊行後、本願寺の布教に直接関与するようになり、1915年(大正4年)12月本派本願寺ハワイ教団の学務部長に就任するが、1917年(大正6年)2月に辞職[15]

同年3月、単身でアメリカ本土、サンフランシスコに渡る[16]。5月にニューヨークに到着し、コロンビア大学クラーク大学 (マサチューセッツ州)英語版の聴講生となりジョン・デューイの講義を聴いている[17]1918年(大正7年)6月、デンバーコロラド日本人会幹事(書記長)の職を得る[18]1919年(大正8年)2月、小畑久五郎の後任としてニューヨーク日本人会の幹事に着任し、1926年(大正15年)10月まで勤める[19]

同月「The Japanese Culture Centreの創立に就て」という趣意書を発表し、日本文化学会の創設に取り組む[20]1927年昭和2年)1月に日本に帰国し、外務省などでに協力要請を行い、岩崎小弥太男爵らの支援を得て、1928年(昭和3年)3月13日、日本工業倶楽部を会場として「日米文化学会」を発足させた後、5月にニューヨークに戻る[21]1929年(昭和4年)コロンビア大学のバトラー総長と面会し、5月に図書館414号室を3年間提供する契約が結ばれた[22]。また7月30日には日本生まれのジェローム・グリーン英語版を委員長として、ダウンタウン協会で日米文化学会(The Japanese Culture Center)が発足し、角田は書記長代理となった[23]

コロンビア大学に日米文化学会を置いたのは暫定的な措置であったため、アメリカ側機関への恒久的移管が模索され、コロンビア大学に加え、ハーバード大学からも受け入れの申し出があった[24]。一時はハーバード大学が優勢となったが、コロンビア大学が日本文化研究・情報供給のための機関新設や日本語・日本文学教育を拡充することを提案し、各日米文化学会の賛同を得て、1931年(昭和6年)3月16日、正式に日本語と日本文学部門の創設、日米文化学会の恒久的移管が発表された[25]。5月20日のアメリカ側日米文化学会の総会で蔵書のコロンビア大学への正式引渡しが決定し、名称も「日本研究会」(The Society for Promotion of Japanese Studies)と改めた[26]。コロンビア大学における組織は「日本研究施設」(The Institute of Japanese Studies)と「日本文庫」(The Japanese Collection)から成り、角田は「日本文庫」の主事兼「日本研究施設」の講師となった[27]。同年9月からの年度で、角田は「古代および東洋の言語文学」部の中の「日本語と文明」コースの「日本の歴史と文学」という科目を担当した[28]。コロンビア大学では1938-39年度から、「中国学科」と「日本研究施設」が統合拡充され、「中国・日本文学部」が創設され、角田は「日本宗教史」や「日本思想史」を講義した[29]1941年(昭和16年)太平洋戦争が開戦すると、12月9日FBIに拘引され、エリス島に連行されるが、1942年(昭和17年)3月24日仮釈放され、コロンビア大学での勤務に復帰[30]1948年(昭和23年)に「日本文庫」主事を退職するが以降も1952-53年度まで「日本思想史」を担当し、この年度末で正式に退職。1961-62年度にもドナルド・キーンが日本での研究のため留守としたため「古典文学読解」と「明治文学」を講じている[31]

1946年(昭和21年)から1951年(昭和26年)までミシガン大学客員教授となり、1962年(昭和37年)から1963(昭和38年)年までハワイ大学東西文化交流センターで研究員となっている[32]

1960年(昭和35年)、日米修好百年に際し、勲三等瑞宝章を受章。1962年(昭和37年)10月6日、コロンビア大学から「名誉文学博士号」を授与される[33]

1964年(昭和39年)、日本への帰国の途中、ハワイで入院し11月29日ホノルルで死去[34]。墓所は東京の小平霊園[35]

出身地にある赤城公民館では、角田の関連資料が展示されている[36][37]

著書

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単著

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  • 『井原西鶴』民友社、1897年5月。NDLJP:872056 
  • 新仏教徒同志会 編『来世之有無』井冽堂、1905年8月。NDLJP:815052 
  • "The Essence of Japanese Buddism"『英文真宗大意』1914年1月
  • 『書斎、学校、社会』布哇便利社出版部〈布哇叢書 第1編〉、1917年1月。 

翻訳

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脚注

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  1. ^ 荻野 2011, p. 9.
  2. ^ 柳井 1994, pp. 7–8.
  3. ^ 荻野 2011, pp. 9–10.
  4. ^ 荻野 2011, pp. 10–12.
  5. ^ 柳井 1994, pp. 21–25.
  6. ^ 荻野 2011, p. 12.
  7. ^ 荻野 2011, pp. 15–16.
  8. ^ 荻野 2011, p. 17.
  9. ^ 角田柳作WEB展:年譜”. www.wul.waseda.ac.jp. 2023年10月19日閲覧。
  10. ^ 荻野 2011, pp. 21–22.
  11. ^ 荻野 2011, p. 22.
  12. ^ 荻野 2011, pp. 27–28.
  13. ^ 荻野 2011, pp. 30–31.
  14. ^ 荻野 2011, pp. 36–37.
  15. ^ 荻野 2011, pp. 37–38.
  16. ^ 荻野 2011, p. 41.
  17. ^ 荻野 2011, p. 42.
  18. ^ 荻野 2011, p. 44.
  19. ^ 荻野 2011, p. 46,55.
  20. ^ 荻野 2011, pp. 59–61.
  21. ^ 荻野 2011, pp. 65–72, 80.
  22. ^ 荻野 2011, pp. 80–82.
  23. ^ 荻野 2011, pp. 83–84.
  24. ^ 荻野 2011, pp. 88–91.
  25. ^ 荻野 2011, pp. 92–97.
  26. ^ 荻野 2011, p. 98.
  27. ^ 荻野 2011, pp. 97–99.
  28. ^ 荻野 2011, pp. 109–110.
  29. ^ 荻野 2011, p. 113.
  30. ^ 荻野 2011, pp. 162–167.
  31. ^ 荻野 2011, p. 114.
  32. ^ 荻野 2011, pp. 116–117.
  33. ^ 荻野 2011, p. 198.
  34. ^ 荻野 2011, p. 200.
  35. ^ 柳井 1994, p. 85.
  36. ^ 赤城公民館 施設案内”. www.city.shibukawa.lg.jp. 2021年7月17日閲覧。
  37. ^ キーンさんの恩師は「群馬の星」 寒村で生まれ、世界へ”. 朝日新聞デジタル (2019年3月12日). 2021年7月17日閲覧。

参考文献

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  • 荻野, 富士夫『太平洋の架橋者 角田柳作―「日本学」のSENSEI―』(株)芙蓉書房出版、2011年4月25日。ISBN 978-4-8295-0508-3 
  • 柳井, 久雄『角田柳作先生―アメリカに日本学を育てた上州人―』上毛新聞社〈上毛文庫〉、1994年11月15日。 

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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