西川明雅
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 安永7年(1778年) |
死没 | 天保元年12月28日(1831年2月10日) |
別名 | 藤兵衛(通称)[1] |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行所 |
氏族 | 西川氏 |
父母 | 西川恒山、仁木門右衛門娘 |
兄弟 | 西川宏道[2] |
子 | 西川宏器[3] |
西川 明雅(にしかわ あきまさ)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。『佐渡年代記』『佐渡志』を編纂した。
経歴
[編集]安永7年(1778年)[4]西川恒山と仁木門右衛門娘の間の子として生まれた[1]。寛政4年(1792年)部屋住みから御役所見習となり、2人扶持を受けた[1]。寛政5年(1793年)書役、寛政9年(1797年)床屋定番役、寛政12年(1800年)目付役助、享和元年(1801年)目付役[1]。
文化2年(1805年)父西川恒山の跡を継ぎ、文化4年(1807年)山方役に転じた[1]。文化5年(1808年)前年分江戸上納金銀宰領、地方・銀山方勘定仕上のため江戸に赴任し、文化6年(1809年)4月29日江戸城植溜で若年寄衆に剣術を披露し、同年帰郷して公事方役となった[1]。
文化13年(1816年)広間役次席、文政3年(1820年)広間役当分助兼公事方役、文政5年(1822年)広間役助、文政9年(1826年)与力格広間役[1]。天保元年(1830年)病気のため退職し、12月28日53歳で病没した[1]。
著書
[編集]- 『佐渡年代記』 - 慶長6年(1601年)から天保9年(1838年)までの佐渡奉行所の記録。死後原田久通によって書き継がれた[4]。
- 『佐渡志』 - 文化年間田中美清と編集し、死後その子藤木福穂によって校訂された[5]。
- 『佐渡之夢』 - 『佐渡年代記』改題。三輪四郎左衛門正義補記[6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/49
- 萩野由之「解題」『佐渡志』佐渡叢書刊行会、1937年10月。NDLJP:1206954/5
- 伊藤純逸「序」『佐渡年代記』 上巻、佐渡郡教育会、1935年8月。NDLJP:1233469/5
- 本間周敬『佐渡人名辞書』本間周敬、1915年3月。NDLJP:1183197/26