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藤木実斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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藤木 実斎
時代 江戸時代後期
生誕 文政7年(1824年
死没 安政6年1月9日1859年2月11日
改名 田中茂次郎、藤木武助、喜一郎
別名 福穂・游(名)、子秀・子穣(字)、実斎・竹窓・北陲・小滄浪亭[1]・養浩斎[2](号)
墓所 相川相雲寺
幕府 江戸幕府佐渡奉行所
氏族 甲斐源氏佐渡田中家、藤木氏
父母 田中葵園・酒匂かつ、藤木福明
兄弟 田中千秋千齢
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藤木 実斎(ふじき じっさい)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。田中葵園長男。漢詩に優れた。

経歴

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文政7年(1824年)[3]田中葵園の長男として生まれた[4]。幼名は茂次郎[3]天保7年(1836年)6月渡辺友水・藤木福明に従い江戸に上り[5]、田中屋に滞在し[6]昌平黌林述斎檉宇に学んだが[1]、眼病を再発し[6]、天保8年(1837年)2月帰郷した[7]

帰郷後、佐渡奉行所地方役、山方役、目付役を歴任し、学問所定役を兼ねる傍ら、西川容所天野恥堂天野養堂丸岡南陔甲賀達斎等を誘い、詩社を主宰した[1]。天保14年(1843年)父葵園の詩集を編集し[8]弘化年間父の編集した『佐渡志』を完成させた[9]嘉永元年(1848年)の幕府による学問吟味では、林壮軒筒井政憲林復斎の審査により甲科と評価され、阿部正弘から金500疋を賜った[1]

晩年喜一郎と称し[3]秦観を慕って游と名乗り、自宅を小滄浪亭と号した[1]安政4年(1857年)病気のため閑職を要望し、赤泊番所定役となり、舟の積荷検査に従事した[1]。安政6年(1859年)1月9日36歳で死去し、相川相雲寺に葬られた[1]

著書

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  • 「趨庭日抄」[1][10]
  • 「趨庭余抄」[10]
  • 「滄浪亭集」[1]
  • 「滄浪先生雑鈔」[11]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 萩野 1927, pp. 97–98.
  2. ^ 佐藤 2003, p. 4.
  3. ^ a b c d 田中 1931, p. 22オ.
  4. ^ a b c 岩木 1927, p. 320.
  5. ^ 田中 1931, p. 26ウ.
  6. ^ a b 児玉 2003, p. 31.
  7. ^ 田中 1931, p. 27ウ.
  8. ^ 田中 1931, p. 31ウ.
  9. ^ 児玉 2003, p. 30.
  10. ^ a b 資料目録 2003, p. 93.
  11. ^ 資料目録 2003, p. 99.
  12. ^ 児玉 2003, pp. 30–31.
  13. ^ 児玉 2003, p. 35.
  14. ^ 田中 1931, p. 28ウ.

参考文献

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  • 「葵園先生年譜」『葵園遺稿』田中完三、1931年9月。 
  • 佐藤利夫「佐渡田中家の系譜」『地役人の系譜 田中葵園資料寄贈記念展報告書』相川郷土博物館、2003年3月。 
  • 児玉信雄「田中葵園(従太郎)の業績」『地役人の系譜 田中葵園資料寄贈記念展報告書』相川郷土博物館、2003年3月。 
  • 「資料目録」『地役人の系譜 田中葵園資料寄贈記念展報告書』相川郷土博物館、2003年3月。 
  • 岩木拡『相川町誌』相川町役場、1927年7月。 NDLJP:1173593/140
  • 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。 NDLJP:1188906/59