渡辺友水
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政4年6月4日(1792年7月22日) |
死没 | 元治元年6月16日(1864年7月19日) |
別名 | 佑左衛門(通称)、保(名)、帰堂・友水・朔六(俳号)[1] |
墓所 | 相川総源寺 |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行所 |
氏族 | 渡辺氏 |
父母 | 渡辺七郎右衛門 |
子 | 渡辺盧舟 |
渡辺 友水(わたなべ ゆうすい)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。武術・俳諧に通じた。
概要
[編集]寛政4年(1792年)6月4日生まれ[1]。相川板町に住み、金蔵役、地方掛、小木定番役次席、金蔵定番役を歴任し、江戸には2度赴任した[1]。
剣術・槍術に秀で、水替掛在任中水替人足が脱走を企てると、山口番所に急行し、飾り槍を振り回して「佑左衛門ここにあり。汝ら、我が槍を食らってみよ。」と叫び、鎮圧した[1]。田付流砲術にも通じ、砲術操練の時には隊長を務めて中砲車台を提げ、数町に響き渡る大声で部下に号令し、これを見た奉行篠山景徳により屯所定番役を命じられた[1]。70代には心働流剣術を試みた[2]。
安田花狂には俳諧を学び、公務の傍ら1日に1句を詠んで「塵の山」と題し、嘉永5年(1852年)冬仮名詩と併せて「初心手引草」を編纂した[1]。
元治元年(1864年)6月16日73歳で死去し[1]、相川総源寺に葬られた[3]。
親族
[編集]先祖は甲斐国武田氏家臣で、佐渡金山開発とともに佐渡国に渡った[3]。
- 父:渡辺七郎右衛門 - 文政8年(1825年)没[3]。
- 子:渡辺盧舟(文化11年(1828年)5月3日 - 安政元年(1854年)10月24日)
- 娘:沖津 - 小木港関吏吉田久次郎相有妻。父に俳諧を学んだ[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/121
- 小林智明「笠原軔の父 渡辺漁村のこと」『佐渡郷土文化』第45号、佐渡郷土文化の会、1985年1月。