西川宏道
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時代 | 江戸時代後期 |
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死没 | 天保8年11月25日(1837年12月22日) |
別名 | 藤蔵(通称)、桐江(号)[1] |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行所 |
氏族 | 西川氏 |
父母 | 西川恒山 |
兄弟 | 西川明雅 |
西川 宏道(にしかわ こうどう)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。
経歴
[編集]西川恒山の子[1]。文政元年(1818年)部屋住みから御役所見習となり、文政2年(1819年)金蔵役となった[2]。文政4年(1821年)学問出精のため定役格となり、文政5年(1822年)江戸上納焼金宰領として江戸に赴任し、佐渡への下金宰領を命じられ、同年中に帰郷した[2]。文政6年(1823年)米蔵役、文政8年(1825年)銅稼掛並役助、同年銅稼掛並役、文政10年(1827年)定勘定役助、文政11年(1828年)学問所定役兼地方掛[2]。
天保元年(1830年)前年分地方・銀山方勘定仕上江戸詰御用として江戸に赴任中、父西川恒山が死去したため、跡を継いだ[2]。天保2年(1831年)帰郷し、目付役助兼学問所定役、天保4年(1833年)目付役、同年学問所定役、天保7年(1836年)公事方役兼学問所定役[2]。天保8年(1837年)病気のため退職し、11月25日病没した[2]。
子孫
[編集]- 西川儀太夫功
- 西川儀一宏遠
- 西川秋三宏器
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/49
- 本間周敬『佐渡人名辞書』本間周敬、1915年3月。NDLJP:1183197/26