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藤牧義夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ふじまきよしお

藤牧義夫
生誕 (1911-01-19) 1911年1月19日
群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市
失踪 1935年9月2日(24歳)
東京都東京市向島区(現・東京都墨田区)
現況 失踪から89年3か月と19日
墓地 群馬県館林市朝日町・法輪寺
国籍 日本の旗 日本
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藤牧 義夫(ふじまき よしお、1911年1月19日 - 1935年9月2日失踪)は、日本版画家。1930年代の東京下町を描いた創作版画を手掛け、隅田川周辺を題材にした長大な白描絵巻版画で知られる[1]。24歳で行方不明となり、長い間幻の木版画家だったが、1978年の遺作展によって再び注目された[1]

略歴

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群馬県館林市出身[2]。藤牧家は代々館林藩に仕えた士族だが[3]、父は明治維新後永年教職にあり、小学校長も歴任し、「三岳」と号し絵や書をよくした。2歳で実母を、13歳で父親を亡くす。父没後に家族で日用雑貨小売を自宅で始め、その二軒隣りに、七歳年上の藤野隆秋(天光)が住んでいた。

義夫は小学校時代から美術が得意で周囲を驚かせた。1927年に上京後[1]日本橋の染織画工・佐々木倉太に弟子入りし[1]、商業図案などを学ぶかたわら、ドイツ表現主義の影響を受けつつ独自の版画様式を確立。全4巻・全長60メートルに及ぶ「隅田川絵巻」は代表的作品である。24歳のとき東京で失踪[2]。墓は館林市朝日町法輪寺。国柱会の信者でもあり、同会本部を描いた作品「申孝園」も遺している[4]

失踪

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版画仲間の小野忠重宅を訪れたのを最後に行方不明となった。小野は、かねてより藤牧は貧困に苦しんでおり、隅田川に沈んでいると友人間では信じていると発言、1978年の遺作展パンフレット[要文献特定詳細情報]への寄稿では、失踪当日藤牧は自室を引き払ったと言って小野に風呂敷包み2つを預けて去ったと述べている。小野の証言によって隅田川への投身自殺が疑われていたが、失踪の謎を追った書物が2000年代以降に相次いで刊行された。

家族

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  • 父・藤牧巳之七 - 尋常高等小学校の校長を30年務め、定年後は前橋地方裁判所の司法代書人をしていた[5]。名誉職だった第一回国勢調査員も務めた。10人の子を儲けたが、男児は二男と54歳で儲けた末子の義夫以外早世[5]。1924年に67歳で病没[5]
  • 実母・たか - 巳之七の後妻。義夫が2歳のときに死去[5]
  • 継母・まさ - たかの妹。義夫が8歳のときに巳之七と結婚[5]
  • 兄・秀次 - 義夫の18歳上。上毛モスリンの社員となり、東京転勤後、社員のまま東京市立商業学校慶應義塾商業学校で学んだが、結核により33歳で没[5]

年譜

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  • 1911年(明治44年) 1月19日、群馬県邑楽郡館林町1006番地(現館林市城町)に、父巳之七、母たかの末子(4男)として生まれる。父は52歳、母はその後妻で、実家の裏手には田山花袋の生家があった[5]
  • 1913年(大正2年) 母たか亡くなる
  • 1917年(大正6年) 館林尋常小学校に入学
  • 1919年(大正8年) 父、亡母たかの実妹まさと再婚
  • 1923年(大正12年) 小学校尋常科を卒業
  • 1924年(大正13年) 9月、父亡くなる
  • 1925年(大正14年) 小学校高等科を卒業
  • 1926年(大正15年) 父の伝記を書いた自家製本「三岳全集第1巻」を完成
  • 1928年(昭和3年) 銀座の植松図案工房に就職。師匠の佐々木倉太(1892年函館出身)は独学で貴金属装身具の図案描きとなり、白馬会などで研鑽し、当時東京を代表する画工として知られていた[6]
  • 1931年(昭和6年) 第9回春陽会展に「ガード下のスパーク」(木版)を出品[1]、第1回日本版画協会展に「夜景」「請地の夜」(木版)を出品[1]
  • 1932年(昭和7年) 小野忠重宅で開かれた新版画集団創立打ち合わせ会に出席[1]、機関誌「新版画」第1号に「朝」(木版)を発表
  • 1933年(昭和8年) 第14回帝展に、「給油所」(木版)を出品し入選[1][2]
  • 1934年(昭和9年) 館林に帰郷し城沼を絵巻風に描く。田中智学が主宰する国柱会の精華会のメンバーとなる[1]。「隅田川絵巻」全巻を完成。
  • 1935年(昭和10年)
4月 「時代に生きよ、時代を超えよ」(エッセイ)、「白鬚橋」(木版)を発表
6月 東京神田の東京堂画廊で個展を開催[1]
9月 向島の小野忠重を訪ねた後に失踪[2]。当時24歳。

主な作品

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展覧会

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  • 1935年6月25日-27日「藤牧義夫版画個人展」神田・東京堂画廊
  • 1978年1月「藤牧義夫遺作版画展」銀座・かんらん舎
  • 1987年「1930年代の版画家たちー谷中安規と藤牧義夫を中心として」神奈川県立近代美術館
  • 1995年「生誕85周年記念ー藤牧義夫 その芸術の全貌」館林第一資料館
  • 2011年「生誕100年 藤牧義夫展」群馬県立館林美術館、神奈川県立近代美術館

放映

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  • 美の巨人たち 「藤牧義夫「赤陽」」テレビ東京ほか、2007年
  • 日曜美術館「時代に生きよ 時代を超えよ~版画家・藤牧義夫~」 NHK 2012年
  • 新美の巨人たち 「圧倒的表現力!藤牧義夫『隅田川絵巻』×要潤」テレビ東京ほか、2020年

参考文献

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  • 群馬県立館林美術館, 神奈川県立近代美術館 編『藤牧義夫 生誕100年』求龍堂、2011年。ISBN 9784763011312 

関連書

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  • 『相生橋煙雨』野口富士男、文藝春秋 (1982/6/1) - 藤牧を題材にした小説
  • 『藤牧義夫 眞僞』大谷芳久、学藝書院 (2010/11/8) - 贋作と失踪を巡る研究書
  • 『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』駒村吉重、講談社 (2011/5/12) - 失踪の謎を追ったノンフィクション

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 生誕100年 藤牧義夫展 : FUJIMAKI Yoshio - Centennial of His Birth:神奈川県立近代美術館<鎌倉館>”. www.moma.pref.kanagawa.jp. 神奈川県立近代美術館. 2021年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月12日閲覧。
  2. ^ a b c d 藤牧義夫「生誕110年」 ゆかりの地で企画展 数奇な生涯を絵でたどる 隅田川描いた4軸、10年ぶり展示”. 東京新聞 TOKYO Web (2022年2月23日). 2022年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月12日閲覧。
  3. ^ 鶴山裕司 (2012年5月7日). “No.011 生誕100年 藤牧義夫”. 2023年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月12日閲覧。
  4. ^ 福田和也 (2011年4月30日). “絶筆となる原稿を捧げた若き版画家。無名の芸術家の惨憺たる境遇(福田 和也) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2023年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月12日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 『君は隅田川に消えたのか 藤牧義夫と版画の虚実』第一章「幸福なとき」
  6. ^ 『君は隅田川に消えたのか 藤牧義夫と版画の虚実』p54

外部リンク

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