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藤枝豊忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤枝 豊忠(ふじえだ とよただ、 元禄2年(1689年[1] - 延享3年5月27日1746年7月14日))は江戸時代中期から後期の甲府藩士、旗本寄合席。旗本寄合席の藤枝氏当主。は豊忠。通称は喜之助、外記、帯刀。父は藤枝方教(若狭守)。母は某氏。妹に徳山秀栄の妻などがいる。また実子は1男6女で藤枝教忠(帯刀)や娘(松平乗守の妻、後に松田勝易の妻)、娘(山田利寿の妻)、娘(山田利寿の後妻)などがいる。享保年間に駿府加番を勤めたことがある。

生涯

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甲府藩甲府徳川家家老徳川綱重徳川綱豊(後の将軍・家宣)に仕えた藤枝方孝(日向守)の孫として出生。寛政重修諸家譜では父の方教の正室を戸川安成(助七郎)の娘とする一方で、豊忠の母は某氏とする。

元禄14年(1701年)に祖父・方孝が死去して父の方教が藤枝氏の家督を継ぎ、甲府藩重臣の藤枝氏嗣子として同年12月15日(1700年)に将軍徳川綱吉に初めて御目見えする。主君の徳川綱豊が将軍後継者となった宝永元年12月12日(1705年1月7日)に父の方教が江戸幕府旗本寄合席に転じ、豊忠も旗本となる。享保6年(1721年)には父の隠居を受けて、旗本寄合席の藤枝家当主となる。

享保17年(1732年刊行須原屋茂兵衛蔵板武鑑において、御寄合衆に『四千五百石 湯島天神下 藤枝帯刀』、駿府加番に『藤枝帯刀』の記載がある。また、延享3年(1746年)刊行の須原屋茂兵衛蔵板武鑑では御寄合金上納支配に「四千五百石 藤枝帯刀」の名が見える。

延享3年(1746年)死去する。享年58。法名は日長。墓所は浅草幸龍寺

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜にある享年からの逆算

参考文献

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  • 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)
  • 『新訂寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会、1966年(昭和41年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻千四百六十一