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藤枝方孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤枝 方孝(ふじえだ かたたか、生年不明 - 元禄14年2月6日1701年3月15日))は、江戸時代中期の旗本甲府藩甲府徳川家家老は初め重昌、後に方孝。通称は喜内。官名は摂津守、丹波守、日向守。父は岡部重家(弥七郎、八左衛門)[1]、母は木村重家(源右衛門)の妹。姉は順性院、妻は池田重政の養女(西尾盛教の娘)、子は藤枝方教(帯刀、若狭守)、立花種成(弥兵衛)室。石高2000石。

生涯

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岡部忠澄(六弥太)の後裔と藤姓を称し、家紋を左巴とする[2]。父は京都の人で岡部氏を称しているが、同じく甲府藩の家老であった岡部定直(出羽守)との関係は不詳。3番目の姉は将軍徳川家光側室で甲府藩主徳川綱重の生母である。方孝は綱重の叔父徳川家宣の大叔父にあたる。また方孝の代で藤枝氏に改姓する。

徳川家光に仕官して、綱重の小姓として江戸城三の丸で勤め、慶安元年12月11日1649年)に月俸30口を賜る。

甲府藩奏者番となった後、明暦元年(1652年)に甲府藩家老に就任し、同年12月22日には従五位下摂津守に叙任する。寛文元年閏8月11日(1661年)に1000石加増されて、合計で甲斐国信濃国に2000石の知行を領する。

元禄14年(1701年)2月6日に死去する。法名は日養、墓所は浅草幸龍寺。子の方教が家督を継ぎ、方教の代で江戸幕府旗本寄合席となる。

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜
  2. ^ 寛政重修諸家譜。同時に小野姓岡田氏と考察する一方、家紋と藤原姓を称していることから藤原姓で収録したとしている。

参考文献

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  • 『新訂寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会、1966年(昭和41年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻千四百六十一