藤原顕業
表示
藤原 顕業(ふじわら の あきなり、寛治4年(1090年) - 久安4年5月14日(1148年6月2日))は、平安時代後期の貴族。藤原北家真夏流(大福寺流)、右少弁・藤原俊信の長男。官位は正三位・参議。
経歴
[編集]白河院政期中盤の天永2年(1111年)文章得業生に補せられ、永久3年(1115年)対策に及第し、翌永久4年(1116年)六位蔵人となる。のち、左衛門少尉(検非違使尉)を兼ね、元永2年(1119年)従五位下・宮内少輔に叙任された。
勘解由次官を経て、天治2年(1125年)従五位上・丹後権介に叙任されて地方官に転じる。任期を終えて帰京後の大治5年(1130年)鳥羽院の判官代を務め、大治6年(1131年)正五位下に昇叙された。
長承元年(1132年)左少弁に遷ると、長承3年(1134年)従四位下・右中弁、保延3年(1137年)左中弁、保延4年(1138年)従四位上次いで正四位下と弁官を務めながら順調に昇進する。保延5年(1139年)には春宮・躰仁親王の学士も兼ね、永治元年(1141年)躰仁親王が即位(近衛天皇)すると、学士の功労により従三位・参議兼左大弁に叙任されて公卿に列した。
議政官として引き続き弁官(左大弁)を兼帯する一方、天養元年(1144年)には式部大輔を兼ねて文人官僚の筆頭となる。久安4年(1148年)正月に大弁の労により正三位に至るが、5月11日に出家し、14日に薨去。享年59。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 嘉祥元年(1106年) 5月20日:給穀倉院料
- 天永2年(1111年) 12月30日:文章得業生
- 天永3年(1112年) 正月26日:越前大掾
- 永久3年(1115年) 10月22日:昇殿。11月21日:献策。12月18日:木工助
- 永久4年(1116年) 7月21日:六位蔵人
- 永久5年(1117年) 正月19日:左衛門少尉
- 永久6年(1118年) 正月18日:蒙使宣旨
- 元永2年(1119年) 正月5日:叙爵(蔵人)。正月24日:筑前権守。11月27日:宮内少輔
- 保安3年(1122年) 12月22日:勘解由次官
- 天治2年(1125年) 正月6日:従五位上(策)。正月28日:丹後権介
- 大治5年(1130年) 10月9日:院判官代
- 大治6年(1131年) 正月5日:正五位下(策)
- 長承元年(1132年) 12月25日:左少弁
- 長承3年(1134年) 2月22日:右中弁。4月2日:従四位下(策)。11月26日:兼文章博士
- 長承4年(1135年) 正月28日:越中権介
- 保延3年(1137年) 10月6日:左中弁
- 保延4年(1138年) 正月5日:従四位上(中弁労)。5月:氏院別当。10月14日:正四位下(行幸石清水賀茂行事賞)
- 保延5年(1139年) 正月24日:備中権介(装束使労)。8月17日:兼東宮学士(春宮・躰仁親王)
- 永治元年(1141年) 12月2日:左大弁。12月7日:停学士(依受禅也)。12月13日:参議(坊学士労)、弁博士如元。12月26日:従三位(坊官賞)
- 永治2年(1142年) 正月23日:兼周防権守
- 天養元年(1144年) 12月18日:兼式部大輔
- 久安4年(1148年) 正月5日:正三位(大弁労)。5月11日:出家。5月14日:薨去
系譜
[編集]注記のないものは『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]- ^ 『朝日日本歴史人物事典』