藤原親能 (権中納言)
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 嘉応元年(1169年)[1] |
死没 | 承元元年11月22日(1207年12月7日) |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 藤原北家道綱流 |
父母 | 父:藤原定能、母:源通家の娘 |
兄弟 | 親能、定玄、定季、藤原資家 (従三位)、定乗、粟田口忠良室、坊門信清室、源定忠室、源兼忠室、大宮局、定観、斎院女房宣旨、殷富門院六条局、持明院家行室、順徳院女房大納言局 |
妻 | 家女房 |
子 | 能快、行能、円親、坊門忠信室、衣笠家良室、藤原家清室、宜秋門院大宮局、大宮殿 |
藤原 親能(ふじわら の ちかよし)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家道綱流、権大納言・藤原定能の長男。官位は従二位・権中納言。
経歴
[編集]承安2年(1172年)従五位下に叙爵。治承2年(1178年)従五位上に陞叙され、翌治承3年(1179年)右兵衛権佐を務める。
寿永2年(1183年)正五位下・右近衛権少将に叙任。寿永3年(1184年)美作介、左近衛少将を務め、元暦2年(1185年)従四位下、文治3年(1187年)従四位上と順調し昇進する。文治5年(1189年)にはさらに正四位下・左近衛権中将に叙任され、美作権介を兼ねる。但馬介を経て、建久8年(1197年)従三位・侍従に任ぜられて公卿に列した。正治3年(1201年)周防権守を兼任。
建仁3年(1203年)正三位・参議に叙任される。加賀権守を経て、元久3年(1206年)従二位に昇り、建永2年(1207年)権中納言に至る。同年10月に父に先立って薨去した。享年39。
官歴
[編集]- 承安2年(1172年)正月5日:従五位下(氏)[2]
- 治承2年(1178年)正月5日:従五位上(皇嘉門院平治元御給)
- 治承3年(1179年)10月9日:右兵衛権佐
- 寿永2年(1183年)正月5日:正五位下(府労) 正月27日:右近衛権少将
- 寿永3年(1184年)3月27日:美作介 10月6日:左近衛少将
- 元暦2年(1185年)正月6日:従四位下(府労)
- 文治3年(1187年)正月7日:従四位上(院当年御給)
- 文治5年(1189年)正月5日:正四位下(院当年御給) 正月28日:左近衛権中将、美作権介
- 建久4年(1193年)正月28日:但馬介
- 建久8年(1197年)2月5日:侍従、従三位
- 正治3年(1201年)正月6日:周防権守
- 建仁3年(1203年)正月5日:正三位 4月25日:参議
- 元久2年(1205年)正月29日:加賀権守
- 元久3年(1206年)4月3日:従二位
- 建永2年(1207年)2月10日:権中納言