藤原藤嗣
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 宝亀4年(773年) |
死没 | 弘仁8年3月25日(817年4月14日) |
別名 | 藤継 |
官位 | 従四位上、参議 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 藤原北家魚名流 |
父母 | 父:藤原鷲取、母:藤原人数(藤原良継の娘) |
兄弟 | 正雄、藤嗣、小屎 |
妻 | 紀古佐美の娘 |
子 | 常房、高房、宮房、宮作、春岡、善本、三清、上支、越岑、弥房、貞直 |
藤原 藤嗣(ふじわら の ふじつぐ)は、平安時代初期の公卿。名は藤継とも記される。藤原北家、左大臣・藤原魚名の孫。中務大輔・藤原鷲取の次男。官位は従四位上・参議。
経歴
[編集]延暦12年(793年)常陸掾に任ぜられると、中務少丞・式部大丞を経て、延暦18年(799年)従五位下に叙爵される。のち、権右少弁・大宰少弐を歴任する。
延暦25年(806年)4月に平城天皇が即位すると、5月に従五位上、6月に従四位下と1年間で4階級の昇叙を受けるなど、平城朝で急速に昇進するとともに、右京大夫・兵部大輔を歴任した。
大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴い従四位上に叙せられて、皇太子・高丘親王(平城上皇の皇子)の春宮大夫に任ぜられる。また、右大弁・陸奥出羽按察使も務める。翌大同5年(810年)に発生した薬子の変では嵯峨天皇側に付いて右近衛中将を兼ね、変後は摂津守を兼ねた。弘仁3年(812年)参議兼大宰大弐に任ぜられ公卿に列す。のち右衛門督を兼ねた。
弘仁8年(817年)3月25日薨去。享年45。最終官位は参議従四位上。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 延暦12年(793年) 5月:常陸掾[1]
- 延暦16年(797年) 11月15日:中務少丞[1]
- 延暦18年(799年) 2月20日:式部大丞[1]。5月10日:従五位下
- 延暦20年(801年) 5月10日:因幡守[1]
- 延暦22年(803年) 10月15日:権右少弁[1]
- 延暦23年(804年) 正月24日:大宰少弐
- 延暦25年(806年) 5月18日:従五位上[1]。6月29日:従四位下[1]
- 大同3年(808年) 正月21日:兼右京大夫[1]。5月21日:兼兵部大輔
- 大同4年(809年) 4月14日:従四位上、春宮大夫[1]。6月2日:右大弁[1]
- 大同5年(810年) 8月10日:陸奥出羽按察使[1]。8月29日:兼春宮大夫(春宮・高岳親王)[1]。9月10日:兼右近衛中将。9月13日:止春宮大夫(廃太子)[2]。9月16日:兼摂津守
- 弘仁2年(811年) 5月14日:兼右京大夫
- 弘仁3年(812年) 正月12日:参議兼大宰大弐、止摂津守[2]。日付不詳:止右京大夫[2]
- 弘仁7年(816年) 日付不詳:辞大宰大弐[1]
- 時期不詳:右衛門督[1]
- 弘仁8年(817年) 3月25日:薨去(参議従四位上)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。