コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原永頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 永頼
時代 平安時代中期
生誕 承平2年(932年
死没 寛弘7年2月27日1010年4月14日
別名 山井三位
官位 従三位皇太后宮権大夫
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原南家貞嗣流
父母 父:藤原尹文、母:藤原定方の娘
兄弟 永保、永年、永頼、永平、永令、慶円?、藤原斉敏
藤原宣雅の娘
能通、信通、保相、永信、藤原道頼正室、藤原頼通側室、藤原中清室、藤原通任
テンプレートを表示

藤原 永頼(ふじわら の ながより)は、平安時代中期の公卿藤原南家貞嗣流、播磨守藤原尹文の子。官位従三位皇太后宮権大夫山井三位と号す。

経歴

[編集]

春宮憲平親王蔵人右兵衛尉を経て、応和2年(962年村上天皇六位蔵人に補される。その後、従五位下叙爵

美作介を経て、円融朝天延2年(974年尾張国の百姓の訴えにより尾張守藤原連真が解任されると、後任として永頼が国守に任ぜられた。これを聞いた尾張国の百姓は喜んで、溢れんばかりの人々が永頼の邸宅へ向かったという。

天元5年(982年讃岐介に任ぜられるが、かつて藤原子高がに任ぜられた際に不利が生じたために、以降は国司の任官に「権」の一字を付け加えるようになった旨を奏上する。これにより、永頼に対して前例通りに「権介」として任符が発給された。讃岐介在職中の寛和元年(985年蔵人頭藤原実資に対して女子誕生を祝して野鳥50貫を贈っているが[1]、永延2年(988年)讃岐介に再任された際には、藤原実資からこの任官についての批判を受けている。またこの頃までに、摂政藤原兼家が溺愛する養子(実は孫)の藤原道頼を婿に迎えており、この任官も兼家から勧められたものとも想定される[2]。一方で、円融朝では兼家と権勢を競った関白藤原頼忠からも信頼を受けていたらしく、頼忠の娘である中宮藤原遵子中宮権亮も務めた[3]

道頼を婿に取ってからは、永祚元年(989年従四位上正暦3年(992年正四位下一条朝前期に順調に昇進を果たした。一方で、正暦4年(993年)11月に山井の邸宅が焼亡[4]、翌正暦5年(995年)2月に盗賊によって邸宅が焼き討ちされ子息が焼死する不幸に見舞われている[5]。後者については、受領として築き上げた財産が狙われた、あるいは受領として赴任中に大きな恨みを買いその報復を受けた可能性もある[6]。さらに、同年6月には娘婿の道頼も病死してしまった。

長徳2年(996年)に発生した長徳の変を通じて権勢の座は藤原道長へ移るが、道長からも国司として力量を評価されていたらしく[7]、永頼は近江介に登用される。近江国では不輸不入の特権が与えられていた東三条院(藤原詮子)の荘園である中津神埼庄の経営に率先して当たり、荘園からもたらされる利益を長保3年(1001年)に没した東三条院追善の費用として時を置かずに寺に施入したと想定される[8]。長保4年(1002年)2月に先に火災で焼亡していた内裏再建の詳細を決めるが、近江介としての永頼の活躍に注目していた道長は、永頼による仁寿殿の造営を認めたらしい[8]。そして2年を待たずに新造内裏は完成し、長保6年(1004年)正月に永頼は仁寿殿の造宮の功で従三位に叙せられ73歳にして公卿に列した。なお、この造営の間に永頼は近江介から近江守に昇任されている。

寛弘2年(1005年)3月に藤原実資を訪ねて出家の意を漏らし[9]、翌寛弘3年(1006年)10月に出家する。寛弘7年(1010年)閏2月27日薨去享年79。岳父・藤原定方より伝領した山井の邸宅に住んでいたため山井三位と号した。この山井第は後に娘婿の道頼が所有した。

人物

[編集]

応和3年(963年)8月15日夜に行われた内裏歌合に参加するなど、少しばかり和歌を詠んだ。

官歴

[編集]

ほかに時期は不明ながら、木工頭、伊勢守丹後守などを務めた[10]

系譜

[編集]

尊卑分脈』による。

永頼の子孫は院政期藤原信西藤原朝子夫妻、源義朝の遺児源範頼の養父である藤原範季やその娘で順徳天皇母の修明門院源頼朝の外祖父藤原季範や母の由良御前などを輩出している。

脚注

[編集]
  1. ^ 『小右記』寛和元年5月2日条
  2. ^ 川田(2005), p. 204.
  3. ^ 川田(2005), p. 203.
  4. ^ 『小右記』目録19
  5. ^ 『小右記』目録17
  6. ^ 川田(2005), p. 205.
  7. ^ 川田(2005), p. 206.
  8. ^ a b 川田(2005), p. 207.
  9. ^ 小右記寛弘2年3月17日条
  10. ^ a b 『尊卑分脈』
  11. ^ 『九暦』
  12. ^ 『西宮記』応和2年正月17日条
  13. ^ 『延喜天暦御記抄』応和2年8月10日条
  14. ^ 『東宮御元服部類』
  15. ^ 『親信公記』天延2年5月23日条
  16. ^ 日本紀略天延2年5月23日条
  17. ^ a b c d 『小右記』
  18. ^ a b 『勘例』
  19. ^ a b c 『権記』
  20. ^ 一代要記』藤原永頼条
  21. ^ 『小右記』目録16

参考文献

[編集]
  • 川田康幸「山井三位・藤原永頼の考察 : なぜ『栄花物語』は永頼その人を描かなかったのか」『信州豊南短期大学紀要』第22巻、信州豊南短期大学、2005年3月、187-228頁、ISSN 1346-034XCRID 1050001338014381440 
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
  • 宮崎康充, 遠山久也『國司補任』続群書類従完成会、1990年。