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藤原 連貞(ふじわら の つらさだ、生年不詳 - 天延2年(974年))は、平安時代中期の貴族。名は連真・連直とも記される[1]。藤原南家、上総介・藤原滋茂の子。官位は従五位上・尾張守。
村上朝初頭に三河権掾を務める。
のち、円融朝にて尾張守に任ぜられるが、天延2年(974年)正月頃より尾張国の百姓らに国司としての非法を訴えられ、5月になって連貞は解任され散位・藤原永頼と交替させられた[2]。これは、国司苛政上訴の初見となっている[4]。同年中に連貞は卒去したという。
『尊卑分脈』による。
- 父:藤原滋茂
- 母:不詳
- 生母不詳の子女
- 男子:藤原為章
- 男子:藤原為元
- 男子:慶円(944-1019)
- 女子:藤原典雅室
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 『日本紀略』天延2年5月23日条
- ^ “古代オープンデータ”. 2023年12月18日閲覧。
- ^ 『大嘗会御禊部類記』
- ^ a b 『尊卑分脈』
- ^ 『日本紀略』