藤原実持
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 文治5年(1189年) |
死没 | 建長8年5月8日(1256年6月2日) |
別名 | 三条、清水谷 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 西園寺家庶流三条家(清水谷流) |
父母 | 父:三条公定、母:藤原成親の娘 |
兄弟 | 実基、実持、実俊、実暁、実算 |
妻 | 宇佐大宮司公通の娘 |
子 | 公蔭、公隆、公兼、公永、公尋、女子(従三位持子:洞院公守室)、女子(従三位按子:花山院長雅室)、女子 |
藤原 実持(ふじわら の さねもち)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。三条実持、または清水谷実持、とも。正二位権大納言。父は従二位権中納言三条公定。母は権大納言藤原成親女。
父と兄が配流される
[編集]建永2年(1207年)9月、父公定と兄実基が佐渡に配流されたため[1]、長らく官位の昇進が滞ることになった。承久の乱後に官位昇進が活発となるのは、西園寺家一門としての余慶に預かったためと考えられる。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』に基づいて記述する。
- 建久9年(1198年)2月26日、叙爵[2]。
- 建仁3年(1203年)3月2日、侍従に任ぜられる。
- 建永2年(1207年)1月13日、土佐権介を兼ねる。
- 承久元年(1219年)12月13日、右少将に任ぜられる。
- 承久3年(1221年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 貞応2年(1223年)1月6日、正五位下に昇叙[3]。同月27日、備中権介を兼ねる。
- 元仁2年(1224年)2月5日、従四位下に昇叙。同月23日、右少将に還任。
- 寛喜2年(1230年)1月5日、従四位上に昇叙。同月24日、右中将に転任。
- 寛喜3年(1231年)1月29日、播磨権介を兼ねる。
- 貞永元年(1232年)12月2日、正四位下に昇叙。
- 文暦元年(1234年)12月21日、従三位に叙される。この日、皇后宮権大夫に任ぜられる。
- 嘉禎2年(1236年)6月9日、参議に任ぜられる。同月13日、皇后宮権大夫は元の如し。
- 嘉禎3年(1237年)1月5日、正三位に昇叙。同月24日、備中権守を兼ねる。同月29日、左中将を兼ねる。
- 嘉禎4年(1238年)閏2月27日、皇后宮権大夫を止める。同年7月27日、権中納言に転任。同年9月、勅授帯剣。
- 延応元年(1239年)5月5日、従二位に昇叙。
- 仁治元年(1240年)10月20日、中納言に転正。同月24日、右衛門督を兼ね検非違使別当に補せられる。
- 仁治2年(1241年)7月17日、正二位に昇叙。同年9月24日、右衛門督と検非違使別当を止める[4]。同年10月13日、権大納言に転任。
- 仁治3年(1242年)3月7日、権大納言を辞す。
- 仁治4年(1243年)4月21日、本座を許される。
- 建長5年(1253年)9月12日、出家。
- 建長8年(1256年)5月8日、逝去。享年68。