藤原定隆
表示
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 長承3年(1134年) |
死没 | 嘉応2年10月2日(1170年11月11日) |
官位 | 従三位、左京大夫 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 藤原北家良門流 |
父母 | 父:藤原清隆、母:藤原家子(藤原家政の娘) |
兄弟 | 光隆、定隆、頼季、隆能、隆盛、清成、通成、時房、清円、覚隆、隆雅、覚成、三条公教室、藤原長輔室、藤原経宗室、平範家室、藤原重方室、藤原忠基室 |
妻 | 源盛邦の娘 |
子 | 保隆、俊隆、隆子、藤原親雅室 |
藤原 定隆(ふじわら の さだたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家良門流、権中納言・藤原清隆の子。官位は従三位・左京大夫。
経歴
[編集]保延7年(1141年)従五位下・備中守に叙任される。久安4年(1148年)に従五位上に進み、久安6年(1150年)但馬守に任ぜられる。
仁平2年(1152年)加賀守に任ぜられる。仁平3年(1153年)正五位下に叙され、久寿元年12月(1155年2月)に右兵衛権佐を務め、春宮権大進を兼ねる。母が乳母を務めた近衛天皇の近臣の1人で、天皇崩御の際に天皇の居所である近衛殿から天皇の父母(鳥羽法皇・美福門院)のいる鳥羽殿に駆け込み、崩御の一報を伝えている[1]。保元2年(1157年)従四位下・皇太后宮亮に叙任されると、丹波守・三河守・越中守・伊予守・備中守と各国の受領を歴任。応保2年(1162年)右馬頭、永万2年(1166年)左京大夫をそれぞれ兼任する。仁安2年(1167年)、後白河上皇の院別当を務め、法勝寺の千僧読経において禄を賜っている[2]。その一方で、後白河上皇の院近臣でありながら、二条天皇期には天皇親政派であった[3]ことが知られ、二条天皇による伊勢神宮遥拝の再興に定隆が深く関与していた[4][5]。
仁安3年(1168年)従三位・皇太后宮亮に叙任され公卿に列す。仁安4年(1169年)周防権守を兼ねるが、嘉応2年(1170年)10月2日に俄かに薨去した。享年37。
官歴
[編集]- 保延7年(1141年)正月6日:従五位下に叙す(春宮御給)。12月2日:備中守に任ず(父清隆朝臣辞伊予守申任)。
- 久安4年(1148年)7月17日:従五位上に叙す(法性寺御堂供養賞)。
- 久安6年(1150年)正月29日:但馬守に任ず。
- 仁平2年(1152年)11月30日:加賀守に任ず。
- 仁平3年(1153年)正月2日:正五位下に叙す。
- 久寿元年12月28日(1155年2月1日):右兵衛権佐に任ず。
- 久寿2年(1155年)9月13日:春宮権大進を兼ぬ。
- 保元2年(1157年)正月24日:従四位下に叙す。両官を辞す。皇太后宮亮に任ず。
- 平治元年(1159年)10月26日:丹波守に遷る。亮如元。11月22日:正四位下に叙す(主基)。
- 永暦元年(1160年)7月7日:三河守に遷る。亮如元。
- 応保2年(1162年)10月28日:右馬頭を兼ぬ。
- 長寛2年(1164年)正月21日:越中守に遷る。頭亮如元。
- 永万元年(1165年)7月18日:伊予守に遷る。頭亮如元。
- 永万2年(1166年)正月12日:左京大夫に任ず。亮守如元。6月22日:備中守に任ず。大夫亮如元。
- 仁安元年(1166年)10月22日:備中守を止む。12月2日:皇太后宮亮を辞す。
- 仁安2年(1167年)3月23日:千僧読経に奉仕。当時、院別当を務む。
- 仁安3年(1168年)3月20日:皇太后宮亮を兼ぬ。大夫如元。8月4日:従三位に叙す(行幸院。院司)。皇太后宮亮左京大夫等如元。
- 仁安4年(1169年)正月11日:周防権守を兼ぬ(大夫勞)。4月12日:亮を止む。