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藤原定隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原定隆
時代 平安時代後期
生誕 長承3年(1134年
死没 嘉応2年10月2日1170年11月11日
官位 従三位左京大夫
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇
氏族 藤原北家良門流
父母 父:藤原清隆、母:藤原家子(藤原家政の娘)
兄弟 光隆定隆頼季隆能隆盛清成通成時房、清円、覚隆、隆雅、覚成、三条公教室、藤原長輔室、藤原経宗室、平範家室、藤原重方室、藤原忠基
源盛邦の娘
保隆俊隆、隆子、藤原親雅
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藤原 定隆(ふじわら の さだたか)は、平安時代後期の公卿藤原北家良門流、権中納言藤原清隆の子。官位従三位左京大夫

経歴

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保延7年(1141年従五位下備中守に叙任される。久安4年(1148年)に従五位上に進み、久安6年(1150年但馬守に任ぜられる。

仁平2年(1152年加賀守に任ぜられる。仁平3年(1153年正五位下に叙され、久寿元年12月(1155年2月)に右兵衛権佐を務め、春宮権大進を兼ねる。母が乳母を務めた近衛天皇の近臣の1人で、天皇崩御の際に天皇の居所である近衛殿から天皇の父母(鳥羽法皇美福門院)のいる鳥羽殿に駆け込み、崩御の一報を伝えている[1]保元2年(1157年従四位下皇太后宮亮に叙任されると、丹波守三河守越中守伊予守・備中守と各国の受領を歴任。応保2年(1162年右馬頭永万2年(1166年)左京大夫をそれぞれ兼任する。仁安2年(1167年)、後白河上皇院別当を務め、法勝寺の千僧読経においてを賜っている[2]。その一方で、後白河上皇の院近臣でありながら、二条天皇期には天皇親政派であった[3]ことが知られ、二条天皇による伊勢神宮遥拝の再興に定隆が深く関与していた[4][5]

仁安3年(1168年)従三位・皇太后宮亮に叙任され公卿に列す。仁安4年(1169年周防権守を兼ねるが、嘉応2年(1170年)10月2日に俄かに薨去した。享年37。

官歴

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  • 保延7年(1141年)正月6日:従五位下に叙す(春宮御給)。12月2日:備中守に任ず(父清隆朝臣辞伊予守申任)。
  • 久安4年(1148年)7月17日:従五位上に叙す(法性寺御堂供養賞)。
  • 久安6年(1150年)正月29日:但馬守に任ず。
  • 仁平2年(1152年)11月30日:加賀守に任ず。
  • 仁平3年(1153年)正月2日:正五位下に叙す。
  • 久寿元年12月28日(1155年2月1日):右兵衛権佐に任ず。
  • 久寿2年(1155年)9月13日:春宮権大進を兼ぬ。
  • 保元2年(1157年)正月24日:従四位下に叙す。両官を辞す。皇太后宮亮に任ず。
  • 平治元年(1159年)10月26日:丹波守に遷る。亮如元。11月22日:正四位下に叙す(主基)。
  • 永暦元年(1160年)7月7日:三河守に遷る。亮如元。
  • 応保2年(1162年)10月28日:右馬頭を兼ぬ。
  • 長寛2年(1164年)正月21日:越中守に遷る。頭亮如元。
  • 永万元年(1165年)7月18日:伊予守に遷る。頭亮如元。
  • 永万2年(1166年)正月12日:左京大夫に任ず。亮守如元。6月22日:備中守に任ず。大夫亮如元。
  • 仁安元年(1166年)10月22日:備中守を止む。12月2日:皇太后宮亮を辞す。
  • 仁安2年(1167年)3月23日:千僧読経に奉仕。当時、院別当を務む。
  • 仁安3年(1168年)3月20日:皇太后宮亮を兼ぬ。大夫如元。8月4日:従三位に叙す(行幸院。院司)。皇太后宮亮左京大夫等如元。
  • 仁安4年(1169年)正月11日:周防権守を兼ぬ(大夫勞)。4月12日:亮を止む。

系譜

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脚注

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  1. ^ 兵範記』久寿2年7月23日条
  2. ^ 玉葉仁安2年3月24日条
  3. ^ 定隆は守仁親王(二条天皇)の立太子から保元2年の従四位下叙位まで東宮権大進を務めた他、二条天皇親政派の中心であった藤原経宗の室は定隆の姉妹であった。
  4. ^ 山槐記』応保元年12月25日条
  5. ^ 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年、156 - 162頁。ISBN 4-305-70296-7