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藤原重方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 重方(ふじわら の しげかた、保安5年(1124年)ごろ[1] - 没年不詳)は、平安時代後期の貴族権中納言藤原顕隆の孫。美濃守・藤原顕能の三男。官位正四位下右大弁

経歴

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近衛天皇六位蔵人右近衛将監を経て、康治2年(1143年従五位下叙爵。のち、宮内少輔を務める。久寿2年(1155年後白河天皇践祚すると女御藤原忻子の家司に任ぜられ、忻子の立后後も中宮権大進皇后宮権大進として仕えた。

後白河院が院政を開始するとその判官代を務める一方で、応保元年(1161年二条天皇五位蔵人に補せられる。長寛2年(1164年)正月に蔵人を除籍されるが、8月には還補されている。 永万元年(1165年六条天皇が践祚すると引き続き五位蔵人を務めた。

仁安元年(1166年)8月に五位蔵人を辞して、左衛門権佐に遷り、翌仁安2年(1167年)正月に右少弁に遷任する。その後は、嘉応2年(1170年従四位下・権右中弁、承安元年(1171年)従四位上、承安2年(1172年)右中弁、承安3年(1173年正四位下安元元年(1175年)左中弁と後白河院政期中期に弁官を務めながら昇進を重ねた。

治承3年(1179年)右大弁となり公卿の座を目前にするが、養和元年(1181年)8月29日病気のため出家した。

官歴

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注記のないものは『弁官補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『弁官補任』による出家時の年齢58,9による。
  2. ^ a b c d e 『本朝世紀』
  3. ^ a b c d 『兵範記』
  4. ^ 『平安遺文』3093
  5. ^ a b c d e 『蔵人補任』
  6. ^ a b 『山槐記』
  7. ^ a b c 『玉葉』

参考文献

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