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藤原長輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原長輔
時代 平安時代後期
生誕 長治元年(1104年
死没 久寿3年1月14日1156年2月6日
官位 従三位右京大夫
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族 藤原北家末茂流
父母 父:藤原長実、母:文賛の娘
兄弟 長親顕経顕盛長輔得子時通長盛藤原宗能室、長子
藤原清隆の娘
季隆実清長明長重、恵任、長恵、印性、円長、円輔、源通資
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藤原 長輔(ふじわら の ながすけ)は、平安時代後期の公卿藤原北家末茂流、権中納言・贈太政大臣藤原長実の三男。官位従三位右京大夫

経歴

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永久3年(1115年)12歳で従五位下甲斐守に叙任。元永3年(1120年左兵衛佐丹後守保安3年(1122年)従五位上、天治3年(1126年従四位上

長承3年(1134年正四位下に昇叙されるが、異母妹・得子鳥羽上皇の寵愛を受けたことに怒った崇徳天皇によって昇殿を止められる。保延6年(1140年)昇殿を許される。同7年(1141年右馬頭に任ぜられるが、同年崇徳天皇から近衛天皇(得子の子)への譲位に伴い昇殿を止められる。

妹・得子の子である近衛天皇が即位した後も、白河法皇の側近であった長実の子らは鳥羽上皇から重んじられずに昇進が停滞し、得子に登用された甥の藤原俊盛(長兄・顕盛の遺児)に官位を追い越される程であった[1]

久安4年(1148年)右京大夫、仁平3年(1153年)再び昇殿を許される、同年備後介、同4年(1154年内蔵頭、同年従三位。

久寿3年(1156年)飲水病(糖尿病)により死去。

系譜

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脚注

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  1. ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5