藤原顕盛
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 承徳2年(1100年) |
死没 | 長承3年1月25日(1134年2月20日) |
官位 | 正四位下、尾張守 |
主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家末茂流 |
父母 | 父:藤原長実、母:文賛の娘 |
兄弟 | 長親、顕経、顕盛、長輔、得子、時通、長盛、藤原宗能室、長子 |
妻 | 藤原敦兼の娘 |
子 | 俊盛、信盛 |
藤原 顕盛(ふじわら の あきもり)は、平安時代後期の貴族。藤原北家末茂流、権中納言・藤原長実の長男。官位は正四位下・尾張守。
経歴
[編集]白河院政期後期に兵衛佐や越前守を務め、永久2年(1114年)従五位上に叙せられる。その後も父の藤原長実とともに白河法皇の近臣を務めながら、修理大夫や伯耆守・尾張守などの国司を歴任した。
大治4年(1129年)白河法皇が没すると、院政を継いだ鳥羽上皇は長実一族の排除に乗り出し、顕盛は修理大夫を解任されてしまう。長承2年(1133年)8月に長実が没すると、後を追うように顕盛も翌長承3年(1134年)正月25日に卒去した。享年35。最終官位は尾張守正四位下。
官歴
[編集]- 時期不詳:兵衛佐
- 永久2年(1114年) 2月11日:従五位上[1]。11月29日:見越前守[2][3]
- 永久5年(1117年) 11月26日:見左兵衛佐兼越前守従五位上[4]
- 保安元年(1120年) 11月25日:伯耆守[2][5]
- 大治2年(1127年) 正月:修理大夫(父長実譲)[6]
- 大治4年(1129年) 2月24日:見兼尾張守[7]。11月3日:見修理大夫兼尾張守[8]
- 長承3年(1134年) 正月25日:卒去(尾張守正四位下)[9]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。