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藤原在衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原在衡
「教導立志基」より『藤原在衡』大蘇芳年
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 寛平4年(892年
死没 天禄元年10月10日970年11月11日
別名 粟田左大臣、萬里小路左大臣
官位 従二位左大臣、贈従一位
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:如無、母:良峰高見の娘
養父:藤原有頼、養母:高向公輔
清原高峯の娘、他
国光博古惟信、忠実、正妃村上天皇更衣)、左京大夫行正室
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藤原 在衡(ふじわら の ありひら)は、平安時代中期の公卿藤原北家魚名流、中納言藤原山蔭の孫。大僧都如無の子、叔父の但馬介・藤原有頼の養子。官位従二位左大臣従一位粟田左大臣、あるいは万里小路大臣と称す。

経歴

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延喜13年(913年)22歳で文章生となる。延喜17年(917年備前掾を経て、延暦18年12月(919年1月)対策に及第し、明けて延暦19年(919年)正月に少内記に任ぜられ六位蔵人も兼ねる。延長2年(924年従五位下に叙爵。のち醍醐朝では、刑部少輔大学頭侍従式部権少輔五位蔵人を歴任した。

延長8年(930年朱雀天皇即位後まもなく従五位上・式部少輔に叙任され、承平2年(932年)左少弁に転じると、承平3年(933年)右中弁、承平6年(936年正五位下、承平7年(937年)左中弁、承平8年(938年従四位下と、朱雀朝において弁官を務めながら順調に昇進し、天慶4年(941年参議兼右大弁に任ぜられ50歳にして公卿に列した。また、議政官として左右大弁に式部大輔を兼帯している。

天暦元年(947年)先任の参議4人(源兼明藤原忠文伴保平源庶明)を越えて、従三位権中納言に任ぜられると、天暦2年(948年)中納言、天暦9年(955年正三位村上朝でも昇進を重ねる。天暦7年(953年)に大納言藤原元方薨去すると中納言以上では在衡が最高齢となったが、天徳4年(960年)10歳以上年下の右大臣藤原師輔の薨去に伴って大納言に昇進し、安和2年(969年)には安和の変によって失脚した左大臣・源高明の後を受けて右大臣に任ぜられ、78歳にして遂に大臣の官職に至った。同年の20歳以上年下の左大臣藤原師尹の薨去に伴い、翌天禄元年(970年)には左大臣に任ぜられるが、同年10月10日に致仕・出家し同日薨去。享年79。同月20日に出家人ながら従一位位階贈位された。

逸話・説話

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安和2年(969年)に発生した安和の変を受けて右大臣に昇進したが、既に高齢であったこと、および変の10日前に自ら所有する粟田山荘に学者文人を招いて尚歯会を開いていることから、在衡は変に関与していないと考えられている。実際に、左大臣源高明の失脚の情報を聞いた在衡の家人が、大臣の座が空席になったため自分の主人が大臣になれると喜んだところ、在衡は怒ってその家人を追放した。また、大臣任官の定例の祝宴も開催しなかったと言われている。

僧侶の子息で五位の諸大夫の養子という、その出自に比して異例の出世を遂げたこともあり、数々の説話に彩られた人物である。若年時に鞍馬寺において天童から大臣への昇進と長命の予言を受けたという話[1]や、天皇の下問には周到な準備をもって的確に答え、しかも風雨を厭わず参勤した話[2]などが、『古事談』に収められている。

尚歯会の際に詠まれた漢詩が『粟田左府尚歯会詩』[3]に残されている。在衡が主催した尚歯会の七叟は、在衡本人・菅原文時橘好古高階良臣菅原雅規十市有象(中原有象)・橘雅文だった[4]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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  • 父:如無
  • 母:良峰高見の女
  • 養父:藤原有頼
  • 養母:高向公輔の女
  • 妻:清原高峯の女
  • 生母不明

後世においてその末裔を称するものに安達氏などがある。

脚注

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  1. ^ 『古事談』第五 神社仏寺,『在衡、鞍馬にて宣託を蒙る事』
  2. ^ 『古事談』第六 亭宅諸道,『藤原在衡、儒業格勤の事』
  3. ^ 群書類従』所収
  4. ^ 野尻, 忠[資料紹介] 奈良国立博物館所蔵『明月記』断簡」『鹿園雜集:奈良国立博物館研究紀要』第9巻、2007年、105–111頁、doi:10.24737/00000101ISSN 13466402  閲覧は自由. p. 111.
  5. ^ 或いは20日

参考文献

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官職
先代
藤原師尹
左大臣
970
次代
源兼明
先代
藤原師尹
右大臣
969 - 970
次代
藤原伊尹
先代
源清蔭
陸奥出羽按察使
948 - 953
次代
藤原顕忠