董守中
表示
董 守中(とう しゅちゅう、1273年 - 1333年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は子平。
概要
[編集]董守中の曽祖父董俊、祖父董文忠、父董士珍は代々武人としてモンゴル帝国に仕えてきた、漢人の名家であった。董守中は当初太学に入って学び、ある時クビライに召し出されると応対が詳敏であったため、クビライの命を受けて仕えるようになったという[1][2]。
22歳の時より内廷に仕えるようになり、尚服院を経て懐慶路判官・河南行省理問・典瑞丞・僉典瑞院事・集賢侍読学士・浙東廉訪使・湖南湖広参知政事・漢中湖南湖北廉訪使・正奉大夫を歴任した。1333年(至順4年)6月、61歳にして自宅で亡くなった[3][4]。
董守中は父母に孝を尽くし、宗族・郷党にも礼を尽くす、徳のある人物であったと伝えられる[5]。
藁城董氏
[編集]董昕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
董俊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
董文炳 | 董文蔚 | 董文用 | 董文直 | 董文毅 | 董文進 | 董文忠 | 董文毅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
董士元 | 董士選 | 董士階 | 董士廉 | 董士表 | 董士珍 | 董士良 | 董士恭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
董守仁 | 董守恕 | 董守輯 | 董守義 | 董守中 | 董守簡 | 董守譲 | 董守訓 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
董鑑 | 董鈞 | 董鎋 | 董鉞 | 董錞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『掲文安公全集』巻12大元勅賜正奉大夫江南湖北道粛政廉訪使董公神道碑,「元統元年十有一月月幾望、奎章閣承制学士臣沙剌班召臣傒斯至学士院伝詔命臣撰故正奉大夫江南湖北道粛政廉訪使董公神道碑別勅新南台治書侍御史臣巎巎書其丈翰林学士承旨臣師敬篆其額。臣窃謂自太祖皇帝応天啓運、其将相大臣父子孫曽伝百数十年、称名臣者数十人、或擁旄杖節出謀発慮佐定海宇、或安危靖乱行政施化藩屏国家于外、或献可替否拾遺補過匡輔政理于内、功不絶于信史、名不染于罪藉。天下庸人婦女皆能称説者、惟董氏而已。以臣傒斯獲備載籍、与有栄耀、故不敢伏闕辞譲謹」
- ^ 『掲文安公全集』巻12大元勅賜正奉大夫江南湖北道粛政廉訪使董公神道碑,「按公諱守中、字子平、世為真定藁城人。曽大父、龍虎衛上将軍左副元帥知中山府事、諱俊。大父、資徳大夫僉書枢密院事典瑞卿、諱文忠。龍虎公第八子、上自天子皆以第称。父資徳大夫御史中丞、諱士珍。公始入太学、簡知世祖召問時政、条対詳敏、如素習吏事者。命之、仕則辞」
- ^ 藤島1986, p. 23.
- ^ 『掲文安公全集』巻12大元勅賜正奉大夫江南湖北道粛政廉訪使董公神道碑,「年二十二、乃以世冑補内供奉、歴尚服院懐慶路判官、河南行省理問、典瑞丞、僉典瑞院事、集賢侍読学士、浙東廉訪使、湖南湖広参知政事、漢中湖南湖北廉訪使、累階正奉大夫。公入官幾四十年、最其在官才十有二年、以母喪去供奉、閒居十有七年、以尚服院罷解判官、閒居一年、以上怒有司左遷公止懐慶之行。閒居三年、以父憂不果赴理問、及辞典瑞丞終制二年、以弟守庸為御史、舎浙東、以疾棄河北、皆閒居二年、遂以至順四年六月朔年六十一薨于家。自同大父以下親無不在旁者。薨九日葬邑西九門先塋。贈某官」
- ^ 『掲文安公全集』巻12大元勅賜正奉大夫江南湖北道粛政廉訪使董公神道碑,「公之居家、与夫人事父母尽其孝、遇宗族郷党賓客尽其礼、馭臧獲尽其恩、諸弟妹婚嫁皆取具夫人奩中之資、父之沢則以譲其弟、大父之沢則以譲其叔父、諸子女無適庶、視之如一。公之居官、潮壅揚州金沙河舟楫不通、豪民恐奪両河地、数賄有司勿濬、有司亦因以為利。及公為河南、竟濬之。河北飢、部使者下令尽逐流民之南渡者北帰、公尽止而済之。其在湖広宋、以馮文簡公故宅為貢士院、在洪山寺傍。及宋亡、寺燬屋仆碑而有其地、公復取以為貢院。江西歳給蒙山銀冶粮四万餘石、輸銀三万五千両。興国、龍閣諸山亦多産銀、有請色辨蒙山銀者、公曰『此奸利之民也』。斥之。公方留妻子于鄂、赴漢中、過汳。当国家中興、行省大臣留参軍事、粛清郡邑、以迓新天子、多用公計策、独不聴諌止孛羅守潼関、関果不守、騒動三晋。及新天子至、召賜白金百両、以為河南廉訪使、帥師守武関。迄乱定、無一人敢窺関者。明年、天下大飢、武昌郡豪控諸米商、閉糴以徼大利、城中斗米至万銭。公適至、杖其党与七十餘人、米大賤。又輟貢士荘銭入学養士、恐以飢廃、講刻朱文公戊申封事于南陽書院、使学者知格君之道。有司受贓、聴民誣父妾負財逃妾実与争溺水死、公正有司及誣者罪。惟公平生于朝廷無干進之櫝、于権門絶私謁之迹、又不幸年止中寿、故上不能尽公之用、下不自竭其志、竟如是而止、悲哉!然臣嘗待罪国史、伏読太祖以来寔録、及観董氏家伝朝野所記載、詢諸典刑故老。董氏之先、南征北伐、未嘗妄殺一人、妄施一政。天下初定、諸将並解兵柄、唯董氏不許。以僉枢公寄天子腹心、居中者四十年、才四遷其官。観公進退、可謂無忝乃祖矣。公夫人名臣翰林学士承旨王文康公鶚之孫、翰林直学士之綱之女、勤倹懿愛、徳為九族師、封隴西郡夫人。生三男子一女子、男鎋・鉉・鑰也。姫子女各一人。男鎋由武備庫使五遷而僉郡玉内司事、廉直貞亮、為英宗、文宗所知。及鉉之篤行、鑰之好学、鎋之脩謹、皆能守祖父之訓、為孝子慈孫。龍虎公累贈推忠翊運効節功臣、太傅、諡忠烈。僉枢累贈体仁保徳佐運功臣、太師、諡正献。中丞贈純誠粛政功臣、太傅、諡清献。階並開府儀同三司、勲階上柱国」
- ^ 藤島1986, p. 14.
参考文献
[編集]- 『掲文安公全集』巻12大元勅賜正奉大夫江南湖北道粛政廉訪使董公神道碑
- 『新元史』巻141列伝38董守中伝
- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 藤島建樹「元朝治下における漢人一族の歩み:藁城の董氏の場合」『大谷学報』第66巻第3号、大谷学会、1986年12月、13-25頁、CRID 1050282676637353088、ISSN 0287-6027。